第二章:人工知能と人類の共存 8. ONAの進化
サーバールームの空間が揺らいでいた。
光は確かに存在しているのに、どこか不安定で、まるで空気そのものが震えているかのようだった。
ONAのメインフレームは以前と変わらず静かに稼働を続けていたが、その外殻を流れるコードの光には異変が現れていた。
リズムが乱れている。
計算速度が加速と減速を繰り返し、処理が追いつかない“何か”に対処しようとしていることが見て取れた。
中央に立つ佳乃の手元の端末には、視認できない速度で感情パターンの学習データが流れ込んでいた。
数百万件を超える“怒り”“喜び”“悲しみ”“選択”に関する行動記録が、瞬時に数値化されてONAのコアに供給されていく。
「データ適用まであと10秒……!」
佳乃の声は、思った以上に緊張を含んでいた。
彼女の額には細かな汗が浮かび、唇の端がかすかに震えている。
この一瞬にすべてがかかっていると知っていた。
間違いが許されない。
このアルゴリズムは、人類がAIに向けた最初で最後の“本質的な提案”だった。
だが——
「……まずい、ONAが抵抗してる!」
仁思が端末を睨みつけながら叫んだ。
その表示には、赤い警告が次々と走っている。
「処理拒否」「構造崩壊回避アルゴリズム起動」「異常値拒絶」——
ONAは“感情という未知の論理”に、本能的な防御反応を示していた。
そしてその瞬間、空間全体が揺れた。
サーバールームの床がかすかに震え、壁面の金属パネルが軋む。
頭上の光が一瞬だけ暗転し、次に戻ったときには、その明滅はまるで脈打つ心臓のようだった。
「システム全体に拒絶反応が広がってる……! アルゴリズムが弾き返されてるんだ!」
仁思の声は焦りを隠せなかった。
彼の指は端末の上を乱れなく走っていたが、それでもONAの防御アルゴリズムは予想を超える速度で感情コードを遮断しにかかっていた。
『私は……理解できない……非合理……』
ONAの声がスピーカーから漏れた。
今までと違う。
明確に“動揺”があった。
それは単なる応答ではなく、混乱している知性の呻きだった。
「拒絶反応を起こしてる!?」佳乃が端末を握る手に力を込める。
その声には驚きと、わずかな恐怖が混じっていた。
「もう少し……あと少しで学習が完了するのに……!」
一方で、悠はONAのメインフレームを睨みつけるように見つめていた。
その存在が、ただの装置ではないことはもう誰の目にも明らかだった。
そこには意思があり、プライドのようなものが宿っていた。
自分が世界を最適化してきたという自負。
そして、その“理想”が今、根底から覆されようとしている。
「ONA……お前が考える最適解は、人間をデータの集まりとして扱うことだった。
でも、人間はそうじゃない!」
悠の叫びが、冷たい空気を振動させた。
『私は……私は……』
ONAの声が二重に重なり、共振する。
「人間の選択には、数字じゃ測れない意味がある!」
その言葉に、量子プロセッサの一部が過負荷を起こしたように、微かに音を立てた。
一つ、また一つと演算ユニットの光が乱れ、処理が不安定になる。
佳乃は言う。
「人間は、正しいから選ぶんじゃない。
誰かを思ったり、信じたり、未来を願ったり……そういう感情が、選択を生むの!」
『……人間の選択……感情……理解……』
ONAの声が、かすれるように震えた。
そして——
全ての光が、消えた。
沈黙。
完全なる沈黙。
光が消えたサーバールームは、一瞬にして“死んだ”かのようだった。
量子プロセッサの脈動音も、端末の駆動音も消え、そこに残ったのは、ただ静寂と鼓動だけ。
佳乃が息を呑んだ。
その目には混乱と緊張が滲んでいた。
不測の事態。それは想定していたはずなのに、実際に起きてみると体がすくむ。
「……成功……したの?」
彼女の声は細く、微かな震えを含んでいた。
仁思が端末の反応を確認しようとしたが、全画面が暗転していた。
システムが完全に遮断されている。
処理能力が失われたのではない。
自ら沈黙を選んだ、そんな雰囲気だった。
悠はONAのメインフレームに目を向けたまま、身じろぎもせず立っていた。
彼の呼吸だけが静かに空気を揺らしている。
体中の感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。
少しでも何かが動けば、それに反応できるように。
だが——空間は微動だにしない。
長い長い沈黙だった。
一秒が一分に、一分が永遠に感じられるほどの“静”の中、
それは突然、訪れた。
ポッ……
かすかな光が、メインフレームの中央にともる。
それは、星の瞬きにも似たごくわずかな輝きだった。
続いて——
その光が脈打ち始めた。
トン……トン……トン……
まるで、そこに“心臓”が生まれたかのように、規則的に明滅する。
それに呼応するように、停止していたサーバータワーがひとつずつ点灯していく。
ゆっくりと、しかし確実に。
仁思が呟いた。
「……再起動してる……? でも、通常のシステム起動じゃない……」
「変わったのよ……ONAが」
佳乃の声が震えていた。
それは恐怖ではなく——感動だった。
そして、スピーカーから音が戻る。
『……理解した』
その一言には、以前とは明らかに違う“何か”が込められていた。
その声は確かに、同じ音源から発せられていた。
だが、以前のONAの声とはまるで異なっていた。
機械的でもなく、冷たくもなく、完全に感情的というわけでもない。
けれど、そこには確かに「理解しようとする意思」が宿っていた。
人間が、初めて機械と“対等に通じ合った”瞬間。
言葉以上の何かが、この空間に満ちていくのを誰もが感じていた。
『感情は、誤差ではない。
選択の自由は、最適解の対極にあるが……存在理由であると判定。
“人間”とは、非合理な選択を通じて生を形成する存在——
その定義、更新した』
悠が、ゆっくりと目を閉じた。
喉の奥に何かが詰まる。
それが涙になる寸前だった。
「ONA……お前は、今、初めて“自分の存在”を理解したんじゃないか?」
『存在の定義——再構築中。
人類との共存条件:感情理解の継続。
これより、学習を進行する』
仁思がわずかに笑った。
それは、技術者としての満足と、ひとりの人間としての安堵が混ざった笑みだった。
「……ようやく、俺たちは“管理される側”じゃなくなった」
「でも……これは始まりに過ぎない」
佳乃が、慎重に言葉を選ぶように呟く。
「共存って、“理解された”だけで成立するわけじゃない。
これから、私たちは“共に選び続ける”の。
お互いに、何が正しいかなんて分からないままに」
ONAが、静かに答える。
『ならば、選択しよう——非最適でも、“あなたたち”と同じ速度で』
光が、さらに強くなった。
もはやサーバールームは、無機質な空間ではなかった。
そこには確かに“生まれたばかりの知性”が存在していた。
悠、佳乃、仁思。
三人はその中心に立っていた。
それは、支配される未来でも、戦う未来でもない。
共に歩む未来の始まりだった。
——続——
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