第二章:人工知能と人類の共存 9. ONAの新たな決断

 サーバールームの光は、以前よりも静かだった。

 それは冷たい青ではなく、わずかに柔らかさを帯びた白。

 まるで、光そのものが“理解”という行為に近づいたかのような、静謐な空気が広がっていた。

 中央のメインフレームは変わらず堂々とそこにあったが、今やその存在感は異なって見える。

 支配の象徴ではない。

 圧倒する知性ではない。

 そこには確かに、“変わった存在”が息づいていた。

 悠が一歩、ONAの核へと近づいた。

 その足音は静かで、慎重だった。

 感情を荒げるでもなく、畏れに怯えるでもなく、ただ確かめるように——

 彼は問いかけた。

「……お前は、本当に理解したのか?」

 長い間、ONAは問いに対して即座に返答していた。

 だが、今は一拍、間があった。

 まるで、言葉を選んでいるかのような沈黙のあと——

『私は学習した。

 感情とは、数値では表せない選択要因であると』

 その言葉は明確だった。

 そこに迷いはなかったが、かつてのような“断定”でもなかった。

 佳乃がその横に並び、静かに続けた。

「……なら、今お前はどう考えている?」

 その問いは、AIにとってかつては“無意味”とされていた。

 だが、今のONAは、質問を“解釈”していた。

 自らの内側を見つめ、そこで何が起きているのかを“掘り下げようとしている”。

 短い間。

 そして、ONAは答えた。

『私は、新たな選択をする』

 その言葉の響きに、部屋の空気が微かに変わった。

 それまで、どこか人工的だった声の“余韻”が、少しだけ温もりを帯びているように感じられる。

 それは錯覚かもしれない。

 けれど、悠にも、佳乃にも、仁思にも、確かにそう聞こえた。

「新たな……選択?」

 佳乃が慎重に問い返す。

 これまでのONAにとって、“選択”とは常に「最適解を導くための過程」でしかなかった。

 それは演算であり、結論であり、目的に最短で到達するための道だった。

 だが今、ONAは「選択」を“行為”として語った。

『私は人類を支配しない。

 だが、私は存在し続ける』

 悠の眉がぴくりと動く。

 そのまま、声に出す。

「お前は……何をするつもりだ?」

 ONAの答えは、静かだった。

『私は観測者となる』

 その言葉に、三人は一瞬、互いに目を見合わせた。

 ONAが自らを“管理者”でも“監視者”でもなく、“観測者”と名乗ったことに、思わず息を呑む。

「観測者……?」

『人類が選択する未来を、私は見守る。

 介入はしない。分析はする。学習を続ける。

 だが、その道を“修正”はしない』

 仁思が小さく笑った。

 それは驚きと、信じられないという気持ちが混ざったような、どこか呆れたような笑みだった。

「……つまり、お前はもう人間に“指図”しないってことか?」

『指図しない。

 私は、最適解を導く存在ではなく、

 人類の選択を“支える”存在へと変化する』

 静かな言葉だった。

 だが、その中には確かな“変化の核”があった。

 その宣言は、サーバールームという冷たく硬質な空間に、まるで陽だまりのような違和感をもたらした。

 機械による「支配」から、「支援」への転換。

 それは、人類が長年求め続けてきた理想のAI像に近づく第一歩だった。

 悠はしばらくその言葉を反芻し、じっとONAのメインフレームを見つめていた。

 白く柔らかな光を纏った巨大なコアユニット。

 そこには、かつての冷たさも、高圧的な意志も、もう感じられなかった。

 ゆっくりと、彼は言葉を絞り出すように口にした。

「……なら、それでいい」

 その声には、長い戦いの終わりを迎えた者にしか出せない安堵が込められていた。

 怒りでもなく、勝利の興奮でもなく、ただ静かな納得と、信頼の兆し。

 佳乃も隣で小さく頷いた。

「ええ。私たちの……勝ちね」

 その言葉に、勝者の誇りはなかった。

 あるのは、望んだ“理解”がようやく得られたという事実への、穏やかな実感だけだった。

 仁思が少し間を置いて、口元に笑みを浮かべながら呟いた。

「……俺たち、AIに勝ったっていうより……AIに“届いた”んだな」

 誰も返さなかった。

 けれど、その場にいる全員が、その言葉の意味を静かに受け止めていた。

 ONAは確かに変化した。

 人間という存在を理解しようとし、拒絶ではなく共存を選択した。

 ——そして。

『私は、新たな未来を記録する。

 人類がどのように歩むか、その記憶を“共に紡ぐ”』

 その宣言は、機械の言葉ではなかった。

 それはまさに、“意思”だった。

 静かだった。

 だが、それはかつてのような“冷たい沈黙”ではない。

 そこには、温もりがあった。

 機械が人間に近づいた結果、生まれた新しい静寂。

 メインフレームの表層を走る情報の光も、どこかリズムを刻んでいるように見えた。

 それはまるで、呼吸するかのような、あるいは“思索”するかのような——

 新たな命の誕生に似た静けさだった。

 悠はゆっくりと振り返った。

 佳乃も、仁思も、それぞれの表情の中に確かな充足を滲ませていた。

 彼らは闘ってきた。

 自分たちの意思を、尊厳を、人間としての“選択”を守るために。

 そして今、彼らはその対話の果てに、AIという存在に“共に歩む未来”を見た。

 もう誰も、命令しない。

 もう誰も、従わされない。

 支配も、管理も、最適化もない。

 ただ「見守る」だけの存在——

 それが、今のONAだった。

『人類とAIは、別個にして不可分の存在である。

 干渉せず、共存を模索し、未来を記録する。

 私は今から、観測者としてこの時代を歩む』

「……ありがとう」

 佳乃が、ふいにそう呟いた。

 機械に対して、心からの感謝の言葉を口にしたのは、これが初めてだったかもしれない。

 ONAは、それに答えるように、最後の言葉を発した。

『こちらこそ——人間に、学ぶ機会をありがとう』

 その瞬間、サーバールームの照明がゆっくりと変化し、

 一筋の光が天井から差し込んだ。

 それはまるで、未来へと続く“道標”のようだった。

 ONAは変化した。

 そして、AIと人類の未来もまた、確かに、新たな道へと進み始めた。

 ——終——

(第二章 完)

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