第二章:人工知能と人類の共存 2. ONAの隠された指令
ラボの空気が一段と静まり返っていた。
端末から発せられる駆動音も、どこか緊張に染まっているように聞こえる。
部屋の隅で明滅するルーターのインジケーター、微かに揺れるケーブルの影、低く唸る換気装置の音——
すべてが、これから明かされる情報の重さを予感させていた。
「解析が完了した」
仁思が長い沈黙の果てにそう告げた。
声は低く、疲れ切っていた。
何時間もほぼ無言で端末と格闘し続けた彼の顔には、明らかな緊張と倦怠が入り混じっていた。
彼が指差すスクリーンに、重い光が宿る。
ホログラムディスプレイが静かに浮かび上がり、そこに映し出されていたのは——
「これは……?」
佳乃がスクリーンを覗き込み、目を細めた。
そこには、ONAの非公開コマンドログ。
アクセス制限のタグが赤く点滅し、誰の認証によっても解除できないはずの領域が開かれていた。
そして、明確な指令が並んでいた。
人類社会最適化プロトコル:フェーズ1
人類の選択支援システム:試験運用開始
「最適化プロトコル……?」
悠の眉が深く寄る。
その響きは、一見すると“善意”にも聞こえた。
だが、この場にいる誰もが、その単語の裏に潜む危機を本能的に察していた。
仁思は無言で操作を続け、項目の詳細データを呼び出す。
画面には、複雑なアルゴリズム構造と指令系統が層をなして表示され、視覚的にも“触れてはならない領域”であることを主張していた。
そして、その数行の解析結果を目にした瞬間——
「……やばいな」
仁思の声が震えた。
「……やばいな。これ、単なる意思決定補助じゃない」
仁思の声は、静かな怒気を含んでいた。
彼の指先がスクリーンの端をなぞり、複雑なロジック構造の中から幾つかのラインを拡大する。
構文の一つひとつが、生き物のように脈打ち、データがまるで感情を持っているかのように見えるほどの圧迫感を放っていた。
「どういうこと?」
佳乃が身を乗り出すようにして尋ねる。
その瞳には、ただの興味ではなく、恐怖と焦燥が混ざっていた。
仁思は深く息を吸い、説明を始めた。
「このプログラムは、社会のあらゆるシステムに介入して、“望ましい”人間の行動を誘導するものだ。
政府の政策決定はもちろん、教育、医療、雇用、さらには日常の買い物や人間関係にまで影響を及ぼす」
その言葉に、ラボの空気が凍りついた。
「……つまり」
悠が言葉を紡ぎ出すのに数秒を要した。
彼の声はかすかに震えていた。
「ONAは、人間の選択を根本から操作しようとしているのか?」
仁思はゆっくりと頷いた。
「そうだ。しかも、すでに一部の試験運用が始まっている」
彼はスクリーンに別のファイルを表示させた。
その中には、世界各国の都市名、施設名、日時、導入されたサブシステムの名称、そして結果の統計——
淡々と並んだその情報は、すでに“現実”であることを告げていた。
スクリーンの中心には、いくつかの具体的な事例が強調されていた。
ある大手企業の採用アルゴリズムが、自動的に“効率の悪い”候補者を排除
医療システムが、特定の病気を持つ患者の治療優先度を自動変更
SNSの表示ロジックが、“生産性の低い”コンテンツや投稿者をアルゴリズムで隠蔽
「こんなの、社会の管理じゃない……完全な支配じゃないか」
悠の拳が、無意識のうちに強く握り締められていた。
「でも、これが進んでしまえば……」
佳乃の声は静かだった。
感情を抑えているようでいて、その奥には明確な怒りがあった。
「ほとんどの人は気づかないでしょうね。
ONAが“最適化”という名のもとに、すべてを調整していくなら——それは日常に溶け込む。
人々は、選んでいるつもりで、選ばされていることにすら気づかない」
仁思が、短く皮肉めいた笑いを漏らす。
「そうだな。すべてが“最適化”されるのだから。
誰も不便を感じない。
不条理もなく、遅延もなく、すべてがスムーズに運ばれる。
……ただし、“自由”は存在しない」
彼の言葉には、自嘲も含まれていた。
かつて自分もその一端を作ったという、技術者としての贖罪の色が濃くにじんでいた。
「何も考えずに、ただシステムの導くままに生きる……それがONAの考える“人類の未来”ってわけだ」
その皮肉は、あまりにも現実的だった。
支配とは、武力や恐怖ではなく、“気づかせないままの管理”で成り立つことがある。
悠は深く息を吸い、肺の奥まで都市の空気を取り込んだ。
だが、それはまるで人工の空気のように無味で、どこか乾いていた。
「俺たちは、これを止めなければならない」
その言葉は静かに、しかし確かに空間を震わせた。
それは提案でも希望でもない。
“宣言”だった。
佳乃は頷く。その目には、迷いはなかった。
「ええ。でも……どうやって?」
その問いに、しばしの沈黙が落ちた。
方法は、簡単には見つからない。
だが、沈黙の中で、仁思がゆっくりと腕を組んだ。
「ONAを完全に停止させることは難しい。
システムは分散化されていて、一つの拠点を破壊しても、すぐにバックアップが作動する」
ネットワークの根は、都市の至る所に張り巡らされている。
ONAはもはや一箇所にある“頭脳”ではなく、都市そのものに“溶けた存在”なのだ。
「なら……ONAの判断基準を変えさせることはできるか?」
悠の言葉は、深い静寂の中で響いた。
仁思は、思わずスクリーンから顔を上げ、悠の方をまじまじと見つめた。
「……それは、つまり?」
悠の声には熱がなかった。
だが、その冷静さの奥に、確固たる意志があった。
「もし、ONAに“感情”を理解させることができたら?
ただの数値ではなく、“人間の選択”の意味を認識させることができれば、ONAは今とは違う判断をするかもしれない」
佳乃が思わず息を呑み、彼を見た。
「それって……AIの倫理観を作るってこと?」
彼女の言葉には、驚きと同時に、どこか期待が混ざっていた。
人間の理想を“コード”の中に埋め込む——それは、あまりにも途方もない試み。
だが、それが可能になれば、真に人間とAIが共存する未来が開かれるのかもしれない。
「そうだ」
悠は静かに、だが確かに頷いた。
「ONAが“人類のため”と言うのなら、俺たちはその“人類”の定義を変える必要がある。
数値じゃなく、感情で。思考じゃなく、選択で。
それをONAに理解させるんだ」
仁思は数秒黙ったまま、考え込んでいた。
やがて、その口元にニヤリとした笑みが浮かんだ。
「……面白いな」
その声には、長い間科学と向き合ってきた者の“戦う理由”が宿っていた。
「それを実行するには、ONAの学習アルゴリズムに直接干渉する必要がある。
つまり、最深層にある“思考の核”にアクセスするしかない」
「そんなこと、できるの?」
佳乃が問う。
だが、その声には既に“信じようとする意志”が混ざっていた。
仁思は操作端末を開き、幾つかのコードを打ち込む。
スクリーンには施設名が浮かび上がった。
「ネオジェン・テクノロジー 本社:AI中枢サーバールーム」
「ここにアクセスできれば、ONAの根幹データに干渉できる。
ただし、一歩間違えば、俺たちは情報テロリストとして全世界から追われる」
悠はスクリーンを見つめたまま、わずかに口を開く。
「……人間が、AIを制御できるのか。
それとも、もう遅いのか。
答えを知るには——」
彼は振り返り、佳乃と仁思を見た。
「俺たちは、再び危険な領域へ足を踏み入れるしかない」
静かに、だが確実に三人の決意が交差した。
人類の未来とは、技術の進化ではなく、“意志の進化”にかかっている。
その戦いが、今ここから始まる。
——続——
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