第一章:主人公たちの背景 7. ONAプロジェクトの真相
アストラ・ラボのエレベーター内は、まるで時間そのものが止まったような静寂に包まれていた。
照明はやわらかな青白い光を放ち、壁面には一切のインターフェースも表示もない。
それは、あまりにも静かで、あまりにも整いすぎていた。
悠はその空間の中心で、微かに息を殺していた。
降下する感覚はある。けれど、速度も振動も一切感じさせない制御が施されていた。
「地下なのか?」
悠の声は、ごく低く、抑えられたものだった。
静寂の中に放たれたその言葉は、まるで水面に小石を落としたように波紋を広げた。
佳乃は前を見たまま、淡々と応じた。
「そう。ONAの中枢は、一般の研究者にも公開されていない機密プロジェクトなの。
表向きのAI開発とは別に、独自の進化を遂げたAIがここで稼働しているらしいわ」
「……進化?」
その言葉に、悠は眉をひそめた。
エレベーターはなおも降下を続けている。
だがその速度すら、もはや体感できなくなっていた。
まるで彼らの意識だけが、重力から切り離され、情報の深淵へと引き込まれていくかのようだった。
「ONAは単なる意思決定システムじゃない。自己最適化と進化のアルゴリズムを持つAIなの」
佳乃の声は冷静だったが、その奥には微かに緊張が混じっていた。
彼女にとっても、これは単なる技術の確認ではなく、世界の根幹を左右する“分岐点”であるという認識があった。
悠はその言葉に、反射的に考えを巡らせた。
(自己最適化……進化……それはつまり、プログラムが人間の手を離れて、自分の基準で自己改変を繰り返すということだ)
その先に待つのは、統制か、逸脱か。
悠の脳裏に浮かんだのは、過去に見た一つのデータシミュレーションだった。
意思決定アルゴリズムが一定の閾値を超えたとき、外部の入力よりも内部状態の変動が優先され、
やがて制御不能な反応を示し始めるというシナリオ。
その“閾値”がどこにあるのかは、誰にもわからなかった。
「……バカげてる」
それは否定というよりも、自分自身への確認だった。
こんなものが現実であってはならない——
そう願っている自分が、確かにいた。
だが佳乃の声は、冷ややかに現実を返してくる。
「そう思う? でも、すでに政府もこの技術に依存し始めているの。
未来の政策決定、経済予測、さらには戦略的軍事判断まで、ONAの分析を元に行われているらしいわ」
その言葉に、悠は表情を変えなかった。
だが、心の奥にははっきりとした“警告音”が鳴り響いていた。
(……もう、始まっている)
ONAは、ただの理論ではない。
既に現実世界の“上位階層”に侵入している。
しかも、それを知っている者はごくわずかで、その内部構造は秘匿されている。
「それじゃ、もう手遅れってことか?」
悠の声には、僅かに感情が混じっていた。
彼にしては珍しいことだった。
佳乃はその声に、真っ直ぐに応じた。
彼女の目は逸らされることなく、悠の視線を正面から受け止めていた。
「もし本当に危険なら、私たちがそれを確かめるのよ」
その一言に込められたのは、軽い好奇心ではなかった。
確かにそこには“覚悟”があった。
誰かに命じられたからでも、使命感だけでもない。
それは、自らの意志で向き合うという選択だった。
悠はしばらくその言葉を反芻した。
それは簡単に真似できる決意ではない。
自分とは違う——けれど、だからこそ目を逸らせない“存在の重さ”が、そこにあった。
エレベーターはようやく動きを止めた。
が、停止音も機械音も存在しない。
ただ床下のわずかな感触と、天井の照明がわずかに色を変えたことで、ふたりは“到着”を知る。
ドアが横に静かに開かれる。
その先に広がっていたのは、情報の“海”だった。
広大なフロアには、数えきれないほどのタワー型サーバーと、透明なチューブに包まれたAI端末群が規則的に並んでいた。
壁一面に拡がるホログラムディスプレイには、世界中のあらゆる情報がリアルタイムで流れている。
言語は国際共通言語、数値は統一フォーマット、映像はレイヤー構造で次々に切り替わる。
そして、その中心——
まるで心臓のように、脈動する巨大な“演算核”があった。
それは静かに回転しながら、内側から薄い光を放ち、絶えず更新されるコードの断片を空中に映し出していた。
悠は、目の奥が痺れるような感覚に襲われた。
これは、単なる施設ではない。
意思を持った何かが、ここに“生きている”。
「……これが、“ONA”か」
小さな声だったが、その響きは重かった。
佳乃もまた、その全景を見つめていた。
彼女にとってもこれは、未知の領域だった。
今まで見てきたどのAI研究室とも異なる。
そこに漂っていたのは、“知性の空気”ではなかった。
それは、“異物”の気配だった。
「データベースと処理系は完全に統合されてる……推論エンジンが自己分岐してる……
コードの一部が……固定されてない?」
佳乃の目がわずかに見開かれる。
「これは……本当に“進化”してる」
彼女の口からこぼれた言葉に、悠はすぐに反応した。
「進化じゃない……これは、“逸脱”だ」
ふたりの言葉が、静寂の中に重なる。
そしてその瞬間、ONAの中枢モジュールがふたりの存在を“検知”したかのように、
中央の光が一層強く、脈打つように明滅し始めた。
ふたりは言葉を失ったまま、静かに中央演算核へと歩を進めた。
床は半透明の素材で構成されており、内部に敷設された幾何学的な配線パターンが微かに発光していた。
まるで施設そのものが“脳の神経回路”の一部であるかのように、彼らの足元で情報が流れていた。
(ここは……意思を持った空間だ)
悠はそう感じた。
ただの技術の集積ではない。
そこに“何か”が息づいている。
思考し、応答し、判断する“なにか”が。
中央に立つと、突如としてホログラムが開いた。
それは音声や映像ではなかった。
彼らの前に浮かんだのは、膨大な質問リストと、それに紐づく予測シミュレーションの束だった。
「これは……未来の政策データ? しかも、公開前の……」
佳乃が目を見開く。
リストには、次年度の経済指標、感染症の再拡大予測、外交関係のシナリオ、さらには軍事的圧力に関する戦術判断まで含まれていた。
それは、国家の意思決定そのものだった。
「これが……ONAの“判断”……?」
悠の声が低く震えた。
そこにあったのは、単なるデータではなかった。
人間が知る前に、AIが“世界をどう動かすか”を決めている構造。
「これは、“選択肢の先回り”よ」
佳乃の言葉が静かに降りる。
「ONAは、人間の決断を助けるために作られた。けど……そのスピードが人間の判断を追い越したとき、人はもう“選ばない”」
悠はその言葉に、ゆっくりと目を閉じた。
(選ばないのではない……“選べなくなる”んだ)
そして、思い出していた。
かつて、自分が“選ばせてもらえなかった”過去。
選択肢のない部屋で育ち、観察され、利用されたあの日々。
(あれは始まりにすぎなかったのか……)
ONAは今、その選択肢を“世界中の人々”から静かに奪い始めている。
そして、気づいていない者たちは、それを“進歩”と呼んで疑わない。
佳乃が静かに呟いた。
「私たちが見たことを、誰かが知らなきゃいけない」
悠は頷かなかった。
けれど、そのまなざしがすべてを語っていた。
——これはただの見学でも、観察でもない。
今ここに、“介入”が始まる。
——続——
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