第一章:主人公たちの背景 5. AI企業への潜入

 夕暮れの街は、高層ビル群の影が長く伸び、地面に仄暗い縞模様を作り出していた。

 東京湾岸の一角、人工島に築かれた近未来都市——その中心に聳えるのが、ネオジェン・テクノロジー本社ビルだった。

 まるで天空を突き刺すような鋼鉄とガラスの塔。

 その表面には無数のセンサーと光学パネルが張り巡らされており、昼と夜とでまったく異なる顔を見せる。

 今は、夜の入口。

 ビルの表面に設置されたLEDパネルが柔らかく光を放ち、企業ロゴとスローガンが交互に映し出されていた。

“We Shape The Future — NEOGEN TECHNOLOGY”

 悠はその建物の前に立っていた。

 左手には佳乃、右手にはセキュリティカード。

 普段であれば、こうした空間に足を踏み入れることすら拒絶しただろう。

 だが、今回は違った。

 彼の目の前にあるのは、ただの企業施設ではなかった。

 それは「知識の中枢」でもあり、「思考の迷宮」でもあった。

「本当に、ここに入るのか?」

 低く抑えた声で、悠は佳乃に尋ねた。

 それは問いでありながら、ほとんど確認のようでもあった。

 彼の中では、すでに半分以上の答えが出ていたからだ。

 佳乃は、軽く頷いた。

「“オメガ・ニューラル・アーキテクチャ”。このプロジェクトの根幹は、ただの技術じゃない。これは“支配の設計図”よ」

 その言葉には熱があった。

 しかし感情的ではなく、分析的な熱だ。

 彼女は冷静な思考の中に、確固たる使命感を抱いていた。

「このプロジェクトの内部に潜る方法があるの?」

 悠の声には警戒が滲んでいた。

「私は企業の研究員としての推薦枠を持ってるの。でも、一人で調べるより、違う視点がほしいのよ。あなたはAIに懐疑的な立場だから、内部の問題点を見つけるのに向いてると思う」

 佳乃の言葉に、悠はわずかに眉をひそめた。

(まるで……俺を“道具”として見ているような口ぶりだな)

 それは不快でもあったが、同時にどこか安心できる感覚でもあった。

 誰かの視線に意味を求められるのは久しぶりだったからだ。

 悠はふと視線を逸らし、巨大なガラスドアの向こう側に目をやった。

 出入りする社員たちは誰もが同じような装いをしていた。無地のシャツ、簡素なジャケット、視線を正面に据え、決して左右を見回すことはない。まるで最適化されたアルゴリズムの一部のようだった。

(ここは“管理された世界”だ)

 その感覚は、かつての研究施設に似ていた。

 白い部屋、監視の目、予測された行動パターン。

 今、目の前にあるこの企業は、あの頃よりもさらに洗練され、見えにくくなった“実験場”のようだった。

「……俺はただ見るだけだ。深入りするつもりはない」

 それは、彼の中での“防衛線”だった。

 だが、それがどれほど脆いものかも、彼自身が一番よくわかっていた。

 佳乃はわずかに微笑み、答えた。

「それでいいわ。でも、見たら最後、きっと考えが変わると思う」

 彼女の声には確信があった。

 その確信がどこから来るのか、悠にはまだわからなかった。

 だが、その言葉に嘘は感じなかった。

 ふたりはセキュリティゲートを通過し、エレベーターホールへと向かった。

 無音で閉じるガラス扉。通行者を自動識別する生体認証システム。

 壁面には企業の最新技術の紹介がホログラムで投影され、無数のグラフと図が静かに回転していた。

「ここが、世界最大のAI企業か……」

 悠は思わず呟いた。

 自分が今、何を見ているのか、まだ完全には理解していなかった。

 ただ、その空間のすべてが「構築された秩序」で成り立っていることだけは、肌で感じ取っていた。

 やがてエレベーターの扉が開く。

 案内されたのは、研究施設棟の第17階。

 そこには“ONA”——「オメガ・ニューラル・アーキテクチャ」の開発中枢が存在していた。

 エレベーターの扉が開いた瞬間、空気が変わった。

 密閉された空間の中に、一種異様な静けさが広がっていた。

 壁は完全な白。素材はおそらく吸音性のあるナノポリマーだろう。靴音さえ吸収され、足元が“無音”を返す。

「ここが“ONA”の中心──第零研究区画」

 佳乃の声も、どこか緊張を含んでいた。

 彼女にとっても、ここは“内部”のさらに奥。推薦枠を持つ彼女ですら、実際に踏み込むのは初めてだった。

 廊下の先に、半透明のセキュリティドアがあった。

 前方に立つ受付ロボットが二人をスキャンし、許可を確認する。

「佳乃・相馬、研究認証確認。同行者、特別観察者プロトコル承認済み──入室を許可します」

 無機質な声。だが、その一言が空間の性質を変えた。

 ドアが開くと、そこにはまるで宇宙船の中のような研究室が広がっていた。

 円形の作業テーブル、天井から吊り下げられた立体モニター、そして室内中央に設置された“中枢核”──ONAの試作プロセッサ。

 部屋には数名の研究者がいたが、誰もこちらを振り返らなかった。

 彼らは皆、機械の一部のように正確に動き、話し、データを整えていた。

「……なあ、佳乃。こいつら、人間……なんだよな?」

 思わず口から漏れた悠の言葉に、佳乃は肩をすくめた。

「肉体的にはね。でも思考回路は、たぶんAIと区別つかないわ」

 その皮肉めいた一言に、悠はうっすらと笑った。

 だが、同時に寒気も感じていた。

 ここでは“人間らしさ”は、不要なのかもしれない。

 佳乃が静かに近づいたのは、部屋の奥。

 そこにある大型の黒い筐体──ONAの主制御ユニットだった。

 その表面には、ただ一言。

“Ω”

 ギリシャ文字の最後の一文字。

 始まりではなく、“終わり”の象徴。

 悠は、その記号を見つめながら思った。

(これは……“終点”の設計図なんだ)

 佳乃はコンソールの前に立ち、アクセス認証を済ませる。

 すぐに無数のデータが空中に浮かび上がった。

 数値、グラフ、映像、文章、アルゴリズム——すべてが連結され、動いていた。

「この中に、“設計思想”が隠されてる。ONAの目的が、本当に“補助”だけなのか。それとも、もっと別のものなのか」

 佳乃の声には、僅かな緊張が混じっていた。

 研究員としてここに立っているが、それだけではない。

 ここに来たのは“答え”を得るためであり、同時に“証明”するためでもあった。

 一方、悠は少し離れた位置から、そのやりとりを見つめていた。

 彼はあくまで「観察者」だ。

 そう自分に言い聞かせていた。

 感情を挟まず、ただ事実を見つめ、そこにある“歪み”を見つける。

 それが自分の役割だ、と。

 だが、彼の心にはひとつの疑念が生まれていた。

(本当に、見ているだけで済むのか?)

 この空間、この技術、この人々。

 そのすべてが、ある意志に従って動いているように見えた。

 もしそれが「最適化」の名のもとに“人間性”を塗り潰していくのだとしたら——

 それは、彼が何よりも忌避してきた「無視できない事象」だった。

 佳乃がふと、彼の方を見た。

 視線が交差する。

 言葉はなかったが、その目が語っていた。

 ——あなたも、もう“外”にはいられない。

 悠は、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。

 そして、歩みを進めた。

 ONAの中枢、そのコンソールの横へ。

 今、この瞬間から、彼は“観察者”ではなくなる。

 かつて誰にも触れなかった男と、

 誰にも信じられなかった女が、

 この場所で“真実”に踏み込む。

 こうして、二人の潜入は始まった。

 ——続——

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