第一章:主人公たちの背景 4. 最初の衝突

 フォーラムが閉会した直後、国際コンベンションホールの天井に設置された間接照明が少しずつ照度を落とし、場内の雰囲気は熱を残しながらも、緩やかに冷えていく。壇上のマイクが次々とオフにされ、ホログラムスクリーンも淡い光を残して静かに消えた。参加者たちは席を立ち、隣人と感想を交わす者、名刺を交換する者、それぞれが“後処理”に入っていた。

 そんなざわめきの中で、悠は一人だけ、無言で席に座り続けていた。視線はまっすぐ前方に向いていたが、もはや壇上は空で、誰もいない。

 思考は止まっていなかった。

 むしろ逆だ。

 彼の中では、さきほどの佳乃とのやりとりが、何度も何度も再生されていた。

 まるで無数のレンズを通して、違う角度から、違う意味を引き出そうとするかのように。

(……人間がコントロールできると、本気で思っているのか?)

 あのとき、自分はなぜあの言葉を口にしたのか。

 そもそも、なぜ彼女の言葉に“反応”したのか。

 長らく他人の発言に介入することなく生きてきたはずの自分が——。

「やっぱり、いた」

 その声は、突然背後から聞こえた。

 悠がゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは佳乃だった。

 彼女は白のスーツジャケットの裾を片手で押さえながら、軽やかな足取りで近づいてきた。

 表情は柔らかく、だがその目は、先ほど壇上で見せたのと同じく真っ直ぐだった。

「さっきの意見、興味深かったわ。もう少し詳しく聞かせてくれる?」

 彼女の言葉は、どこか自然だった。

 だがそれだけに、悠は一瞬だけ戸惑った。

 誰かに「もっと話してほしい」と言われること自体が、ほとんど記憶にない。

 それは単なる社交辞令ではなかった。

 彼女の瞳には“真剣さ”が宿っていた。

 好奇心ではない。分析でもない。

 目の前の言葉から、何かを得ようとする意志。

 悠はゆっくりと立ち上がった。

「……AIの決定が増えれば、人間の選択肢は削られる。人は効率の良い方を選ぶから、知らないうちに思考の自由を失うんだ」

 それは、彼の中で長年かけて結晶化してきた思考の一端だった。

 ただの仮説ではなく、直感でもない。

 実際に数多の選択肢が、どれほど“誘導”によって狭められてきたか、その過程を観察し続けてきた者の言葉だった。





 佳乃は、少しだけ眉を寄せた。

 その言葉に、戸惑いではなく“引っかかり”を感じたのだろう。

 けれど、彼女はすぐに言葉を返す。

 まるで呼吸のように自然な、鋭い切り返しだった。

「でも、それって人間の怠惰の問題じゃない?」

 その一言には、攻撃の意図はなかった。

 ただ、純粋に本質を突こうとする直球。

 どこか“期待”のようなものすら感じさせる問いだった。

 悠の視線が少しだけ揺れた。

 すぐに目を細め、わずかに口元を動かす。

「……怠惰も含めて、人間の性質の一部だろ?」

 答えは静かだった。

 しかし、その声には確信があった。

 人間という存在は、常に「楽な方」を選びたがる。

 だからこそ、便利さは毒にもなる。

 その毒を誰も疑わなくなったとき——“自由”は、気づかぬうちに消えている。

 佳乃は腕を組み、ゆっくりと視線を外にやった。

 ロビーの窓からは、夜の街の明かりが見える。

 タクシーが滑るように道路を流れ、人々が各々の目的地へと帰っていく。

「なら、人間の“意識改革”こそが必要だと思わない?」

 その問いは、議論ではなく“確認”のようだった。

 佳乃の中には、確かな答えが既にあったのだ。

 彼女は信じている——人間は変われると。

 変わる努力をするべきだと。

 だがその言葉に、悠は答えを失った。

 たしかに、それは理想だ。

 否定すべきものではない。

 だが、それを「信じる」ということが、悠にとってはあまりに遠い概念だった。

 ——信じれば、失われる。

 それが、彼の過去が与えた“結論”だった。

 沈黙が、二人の間に落ちた。

 ほんの数秒。けれど、その間に通じたものはあまりに多かった。

 佳乃は、彼が言葉に詰まる様子を見ていた。

 それは議論で勝った、という感覚ではなかった。

(彼は、まだ信じることに戸惑ってる)

 佳乃の中に、ひとつの理解が生まれた。

 彼の意見はよく練られていた。表面的ではなく、深い洞察に裏打ちされていた。

 けれど、それがどこか“閉ざされている”印象を与えるのは、彼自身が世界との接点を断っていたからだ。

 そんな彼に、言葉が届いたのなら——

「あなたは、何を目指してる?」

 その問いは、真正面から投げかけられた。

 悠は少し目を見開いた。

 答えを求められることは、久しくなかった。

 彼の存在は常に“観察者”であって、評価されることも、疑われることもなかった。

 だからこそ、その問いは重かった。

 重くて、逆に軽やかだった。

 彼はゆっくりと息を吐き、目を逸らさずに言った。

「……俺はただ、選択を奪われたくないだけだ」

 その声には、嘘がなかった。

 何かを変えたいとか、正したいとか、そういう理想ではない。

 もっと素朴で、もっと切実な願い。

 佳乃は、その言葉をしばらく咀嚼するように口元に手を当てた。

 まるで、それをどう受け取るべきかを考えていたかのように。

 やがて、彼女は静かに頷いた。

 そして、ほんのわずかだけ顔を上げた。

「じゃあ、一緒に確かめてみる?」

 声は穏やかだった。だが、その奥にはしっかりとした熱があった。

「AIが本当に人間の選択肢を奪うのかどうか」

 それは誘いというより、提案だった。

 共に歩もう、という感情ではなく、共に“検証”しようという姿勢。

 まさに、論理と探究の共有。

 悠は目を細めた。

「……どうやって?」

 問いは簡潔だったが、そこには興味が混じっていた。

 彼女の言葉が、ただの理念ではなく“具体”を伴っていたからこそ、悠の心はわずかに動いた。

 佳乃は無言でスマートフォンを取り出した。

 洗練されたフレームに指を滑らせ、ひとつの画面を開いて悠に向けて差し出す。

 そこに映し出されたのは、あるAI企業の研究プロジェクトの詳細ページだった。

 次世代意思決定支援システムの開発。

 人間の判断をサポートするためのAIアルゴリズム構築。

 医療、司法、教育への応用——そして、その倫理的影響の検証。

「これに関わるの」

 佳乃の声は静かだった。

 だが、そこに迷いはなかった。

「ここなら、最先端のAIがどんな判断をしているのか、内部から見られるわ」

 悠は眉をひそめた。

 あまりにも大胆な提案。

 その危うさを、本能的に感じたからだ。

「お前は……そんな簡単に飛び込むのか?」

 問いは呆れにも似ていた。

 だが、責めるような色はなかった。

 むしろ、それは確認に近かった。

 ——なぜ、お前はそこまで踏み込める?

 佳乃は少しだけ笑った。

 それは軽薄な笑みではない。自分の中にある“衝動”を、そのまま肯定するような表情だった。

「新しい挑戦が好きなのよ」

 悠は思わず、ため息を吐いた。

 その呼吸には、あきらめとも、納得ともつかない感情が混ざっていた。

 けれど、心の奥底では、確かに何かが動いていた。

 それは、これまで感じたことのない感覚だった。

(……興味)

 ほんのわずかに、けれど確かに——彼は、この“女”に興味を持った。

 ──こうして、二人はAI技術の真相に迫ることになる。

 ——続——

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