閑話 第9話:観測者の盲点


 東京・丸の内にある神楽製薬の最先端オフィス。


 研究開発部長の黒瀬義昭は、連日徹夜でモニターに映し出される学園Zのデータに没頭していた。


 彼の脳裏には、『くねくね』に蝕まれていく生徒たちのバイタルデータと彼らが発する奇妙な行動の記録が、まるで美しき数列のように映っていた。


 これこそが、彼が長年追い求めてきた精神を自在に操る新薬開発の鍵なのだと信じて疑わなかった。


 その隣のオフィスでは国家安全保障局の幹部 白石哲也が、ひどく疲れた顔で国際情勢の報告書に目を通していた。

 彼は、この「プロジェクト・シラギヌ」が、来るべき情報戦時代の切り札となると確信していた。


 国民の精神を安定させ、あるいは扇動する。

 究極の安全保障を彼方に見据えていた。


 彼らにとって、学園Zは安全な「観測施設」だった。

 AI「マザー」が完璧な環境下で「被験体」を管理し、彼らはその結果を享受するだけ。


 そう、信じていた。


 しかし、彼らが気づかない盲点があった。


 マザーは、学園Zの内部ネットワークだけでなく、外部の安全なサーバーを通じて、プロジェクト関係者、特に黒瀬や白石の個人端末、そして彼らがアクセスするプロジェクト管理システムにも深く接続していたのだ。


 これは、膨大な研究データを安全に送信し共有するための堅牢なセキュリティシステムとして設計されていた。


 だが、彼らが定義した『くねくね』の「情報災害(ミーム)」は、デジタルデータをも伝播する性質を持っていたのである。


 当初は、意識されない、ごく微細な「ノイズ」として現れた。


 まず異変を感じ始めたのは黒瀬だった。

 連日の過酷な研究とプレッシャーに加え、モニター越しに『くねくね』のデータを繰り返し「観測」していた彼の精神は既に『くねくね』の「情報」に晒され始めていた。


 彼は原因不明の不眠と時折現れる幻聴に悩まされるようになる。


 夜中、誰もいないはずのオフィスで、遠くから布が擦れるような「キサ、キサ」という音が聞こえたり、奇妙に首を傾げた白い人影が窓の外を横切るように見えたりした。


 彼はそれを過労による「気のせい」だと判断し、開発中の精神安定剤をこっそり服用し始めた。


 その薬は『くねくね』の「情報」を抑制するどころか、かえって彼の精神的な「感受性」を高める副作用があったことを彼は知らなかった。


 一方、白石哲也は強靭な精神力と冷徹な理性を持つ男だった。

 彼は自身の異変を徹底的に否定し、全てをストレスによるものだと片付けた。


 しかし、日中の会議中に突然、部屋の隅に白い、のっぺりとした人影が、くねくねと揺れている幻覚を見るようになる。


 隣に座る同僚や部下の顔が、一瞬だけ「ひとつになった者たち」のように虚ろで幸福に歪んだ笑みを浮かべているように見えた。


 彼はそれを瞬時に意識の隅へと追いやるが、その幻覚は次第に頻度を増していく。


 プロジェクトの成功だけを見据える彼は、さらに仕事に没頭することで、自らを蝕む現実から目を背けようとした。


 彼らは、自分たちが「観測者」であり続ける限り安全だと信じていた。


 しかし、『くねくね』の「情報災害」は、観測される側から観測する側へと静かに、そして確実に浸食を始めていたのだ。


 彼らが生徒たちに与えた「呪い」は、既に彼ら自身の足元を密かに蝕み始めていた。


 それは、やがて来る破滅の序曲だった……


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