第10話「沈黙のノート」
⸻
下校前の教室。
最後のチャイムが鳴ったあと、光は自分の机に違和感を覚えた。
中に、何かがある――
「……これ、誰の?」
机の中から、何の装飾もない黒いノートが一冊、するりと出てきた。
名前は書かれていない。開くと、最初のページにたった一言。
「忘れていいものと、忘れちゃいけないものの区別は、誰が決めるんだろう」
その筆跡は、どこか見覚えがあるようで――けれど、はっきりと思い出せなかった。
「……今日は、いつもより静かだな」
昇降口で待っていた影が、光の様子を見て言った。
光はノートを手に持ったまま、答える。
「うん、ちょっと変なものを見つけてね」
「変なもの?」
「……これ。机の中に入ってたの。誰のか分からない」
影はノートを一瞥しただけで、特に興味を示さなかった。
「中には何が?」
「……よく分からない文章がいくつか。誰かの“心の中”を綴ったような……日記っていうより、独白に近い感じ」
ふたりは歩き出す。今日はやや風が強く、ページが勝手にめくれる。
「読んでみる?」
光が問いかけると、影はほんのわずかに首を横に振った。
「お前が読んだほうがいい」
光は頷き、立ち止まってノートを開く。
その中には、こんな文があった。
「声にならなかった言葉たちは、どこに行くんだろう。
誰にも聞かれなかった想いは、世界に存在したことになるんだろうか」
光は息を呑んだ。
「……なんだか、読んでると苦しくなる。自分の心を読まれてるみたいで」
「そうか」
影の声は、どこか遠いところから聞こえてきたように感じられた。
「でもね、ふしぎなの。初めて読むはずなのに、どこかで知ってる気がするの」
「“忘れたこと”にされてる記憶って、そういうものかもな」
「……どういう意味?」
影は少しだけ歩を緩め、光の隣に立ち止まった。
「誰にも見られなかったけど、確かに“書かれたもの”。
誰にも触れられなかったけど、確かに“存在していた感情”。
それらは、いつか別の形でお前の中に残ってる。
たとえば――沈黙とか、涙とか、空白の感情として」
光はノートを閉じた。
「じゃあ、このノートは……私の“忘れ物”かもしれないってこと?」
影は答えなかった。
風がまたノートのページをめくった。今度は、空白のページ。
そこに何かが書かれているような錯覚が、ふたりの間をすり抜けていった。
やがて、家の前の角に差しかかる。
「……持って帰るよ、このノート。読んでみる」
「いいと思う」
「読んだら、何か思い出せる気がする」
「思い出した先にあるものが、“本当に望んでいるもの”であるといいな」
「……うん。怖いけど、たぶん、進まなきゃいけない気がする」
影は小さく頷いた。
「忘れることも進むことだ。けど、お前は“確かめる”って選んだんだな」
光はノートを胸に抱いて、家の方へと歩き出した。
影は見送ったまま、その場を動かない。
風が止み、世界が静かになったとき――
影はふと、つぶやいた。
「忘れられるって、痛いな」
けれどその声は、風とともにどこかへ消えていった。
そして光の手に残されたノートの最後のページには、こう記されていた。
「名前のない言葉たちへ。君が忘れても、ここにいたという事実だけは、残る」
その筆跡が、いつか見た誰かの文字に似ていることに――光は、まだ気づいていない。
⸻
【第10話・了】
⸻
次回予告(第11話)
「影踏み」
校庭でふと見つけた“もう一つの影”。誰かがいたような、でも確かめようのない違和感。
光と影は、すれ違いながらも、見えない“誰か”に踏み込もうとする――。
⸻
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます