第13幕 すれ違うまま終わる話

 暗い夜空の下で、ふらふらと保坂は歩いていた。

 その表情は空虚で、虚ろだった。

 それは、誰の感情さえも映すことを拒む歪な鏡のように。


 目的もなく歩き続けていた保坂が、ふと見上げると、暖かな光が灯る大きなマンションが目に入った。

 別にそのマンションが特別というわけではない。

 ただ、目についただけだった。

 多くの窓から洩れる暖かな光が、保坂の目に眩しく焼きついた。

 それだけで、彼女には十分な理由だった。


「ずるいなぁ……なんでみんな、あんなに楽しそうなんだろう」


 保坂は、そんな光を見つめながら寂しそうに笑うと、自分の目から流れ落ちる涙をそのままに、ゆっくりとそのマンションに向かって歩き出した。



 ひとりの女性が、仕事で疲れた身体を引き摺る様に、ぐったりした足取りで自分の部屋番号のポストを開けて中身を確認する。

 いつも通り、どこぞのDMやピザ屋のチラシくらいしか入っていない事を確認して、ため息交じりにそれらを、ポスト下に用意されているゴミ箱に投げ入れる。

 ズレ落ちそうになっているバッグを、肩に掛け直すとエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターが一階まで降りて来るのを、今いる階数を表示している光を無感動に眺めていると、ふと目線の脇に、マンションの入り口に歩いて来る制服姿の女の子を捉えて、親切心で内側のセンサーに手をやって入り口のオートロックの扉を開いた。


「ありがとうございます」


 その女の子は、表情を崩さずに扉を開いてあげたこと、お礼を言って頭を下げた。


「ん、別にいいですよ。 何階に住んでるの?」


 そう質問すると、その女の子は苦笑いを浮かべて小首を傾げるだけで、何も答えてくれなかった。

 このご時世なので、何階に住んでるとか簡単に口にするものではないと、親御さんに教わってるのかもしれないなと、たいして気にもせずに到着したエレベーターに入ると、その子も同じようにエレベーターの中に入った。

 自分の住む4階のボタンを押した後、その子の為にボタンを押そうとして、何階なのかを聞けなかったことを思い出して、そのまま無言で扉が閉まるのを待った。

 その女の子は、確か近所にある中学校の制服だったなと思いながら、それ以上は気にしないで4階へ到着するのを待った。

 やがて到着した4階で、私がエレベーターを降りると、それを待って自分の階を押すのかと思っていたその子も、この階でエレベーターを降りた。


 いぶかしく思いつつも、その子の後ろを歩くように警戒しつつ自分の部屋の前で止まる。

 その子が、こちらを意識する事なく、この先に進んで行くのを見送ると、安心するように息を吐いてから、鍵を開けて自分の部屋に入っていった。



 なにも考えたく無くなった保坂は、まるで人任せのように開いてもらった扉に入り、到着した階でエレベーターを降りるとまっすぐと歩いて行く。

 その先には非常階段の扉があったので、そこを開けて外に出ると、強い風が自分の髪の毛をかき混ぜたので、片手でそれを押さえるように撫でる。


「きれい……」


 そこから見える都市高速に流れるヘッドライトの光に、思わずそう呟いた。

 保坂は、自分がいる非常階段の上を見上げて、ステップの間に見える星の暗い空に不思議と呼ばれてる気がした。


「もっと上からみたら、街の光もキレイなのかなぁ」


 そう一人呟くと、非常階段の上りに足を進める。

 何階か上がった所で、建物の隙間から自分が通う中学校の姿が目に入り、そちらに導かれるように階段の脇に寄る。

 その学校の姿は、周囲から切り離されたように、街の光の中でぽっかりと空いた穴のように見えた。


「学校って、あんなに真っ暗だったんだ……」


 保坂は、そう思ってその酷く暗い闇を見続ける。

 その闇の中に、ふと神大の顔が浮かぶと優しく自分に笑いかける。

 その幻は、今の神大ではなくて、まだ幼い頃の姿だった。


「私って飛燕君にはどう見えていたんだろう……」


 やがて、その幻は保坂に手を伸ばす。

 その手を握ろうと、保坂は非常階段の手すりを登って、その手に向かって身を乗り出した。



 保坂が目を覚ましたのは、白い天井と白いシーツで包まれたベッドの上だった。

 自分の手の平に、熱を感じてそちらを見ると、久しぶりに見た気がする母親が自分の手を握ったまま、ベッドに頭を乗せて眠っていた。

 不思議な夢だなと、保坂は思いながら視線を巡らせる。

 病院のように見えて、なおさら夢だと思って目を瞑る。


 カー、カチャン


 目を瞑って暫くした頃に、独特な響きを持った何かを横に動かすような音に、目を開いてそちらを見た。

 どうやらこの音は部屋の入り口の扉を開いた音だったようだ。

 その開いた扉から入って来たのは、母親以上に最近顔すら見ていない父親の姿だったので、保坂は「やっぱり夢だ」と思って、また目を閉じる。

 それでも、すぐ横で花瓶をテーブルに置くような音がリアルに感じて、不思議な気分になる。

 やがてその音を発している気配は、寝ている母親の反対側に椅子を引き摺るような音を立てて、そこに座った。

 そして、母親が握る手とは反対の手を握ってきた。

 手に伝わる暖かい熱に、不思議な幸福感を感じて目をもう一度開けてみた。


鳴海なるみ!」


 目の前に座る父親の幻と目があうと、その幻は大きく保坂の名前を叫んで、握っている手に力を込めてしまう。


「いたっ!」


 強く握られ過ぎて、痛みで思わず保坂がそう声を漏らすと、その手は慌てて力を抜く。


「ご、ごめん。 痛かったか?」


 そう言って涙を湛えた目で、私を見て嬉しそうに笑う。

 その声に目を覚ました母親の幻もゆっくりと顔を上げると、保坂を見て涙を流す。


「ああ、鳴海ちゃん……目を覚ましたのね……よかった」


 保坂を嬉しそうに二人は見つめて、その手を優しく握る。


「現実なの?」

「何を言ってるんだ、現実に決まってるだろう」


 そう答える父親の顔を見て、保坂も涙を流す。

 夢に見てまで欲したその光景に、心からの幸せを噛みしめて。


「パパ……ママ……ごめんなさい」


 三人は泣きながら静かに病室で抱き合った。



「あ、そういえば病院の場所言わなかった……まぁ、後でいいでしょ」


 神大の母親は息子にかけた電話切ってから、そう呟いてスマートフォンをポケットに入れる。


「それにしても、鳴海ちゃんが無事でよかったわ……」


 そう呟くと、彼女は出かける支度を済ませて家を出た。



 保坂の死の現実に、それを受け入れられないままで、放心状態のまま授業を神大は受けていた。

 学校は今の所、生徒に対して何も教えようとせず、淡々と日常が過ぎて行く。


「今はとりあえず何もするな! いいか、考え過ぎて変な行動だけは取るなよ!」


 そう言って、校門で別れた親友の大河内言葉が、頭の中を何度も繰り返す。

 わかっているから黙っててくれと、何度もそう言うが一向に止む気配が無かった。

 佳那子と付き合いだした事が原因なのはわかっている。

 だからと言って、俺はどうしたらよかったのか本当に何も分からない。

 昼休みまでの時間、何度も何度も繰り返される大河内の言葉が、逆に俺が悪いのだと責め立てられてるようで憔悴しきった顔で、一人スマートフォンを握りしめていた。


「佳那子と話がしたい」


 神大にとって、佳那子は珍しいタイプの女の子で、大抵の女子は自分の気を引こうとやっきになっているか、逆に遠巻きに見ているしか無いのが全てだった。

 その中で、悪びれる事無くすぐ近くでいつも、笑い、おこり、走り回る。

 そんな子だった。

 多分小さい頃は、周囲はそんな子が男も女も大勢いた気がする。

 いつの頃からか、自分の周りにはそういった一緒に遊んでくれる人の姿は減っていた。

 数えるなら、大河内くらいだろう。


 そんな中に、小さい頃の友達のように接してくる彼女はとても眩しく思えたのだ。

 やがてその感情が、特別なものに変わるまでには、それ程時間を必要とはしなかった。

 保坂の自殺、昨日の佳那子の怪我、羽田の態度……どれを取っても答えは一つしか導き出せずに、苦しくて胸を締め付けられて耐えられなくなった。

 その結果、気がついた時には佳那子へ別れのメッセージを送っていた。

 その後は、アプリをミュートにして手に取らないようにと、机の奥に押し込んだ。



「え……それって本当なの?」


 日花里が羽田から今朝の、神大の電話口での言葉を聞いて絶句して固まる。


「間違いないよ、しっかり聞こえたから」


 羽田は淡々と日花里に告げる。

 日花里は佳那子の親友で、昨日の事件を知っているので伝えておこうと思ったからだ。


「羽田君って……そんなキャラだったっけ?」


 現実味のない話に、日花里は思わず別な事に気を取られて、羽田にそう尋ねた。


「ひどくねぇか? 俺だってこんな話を明るく話せるわけねぇじゃん」


 そう言って、つまらなそうに席に戻ろうとする羽田の背中を、追うように見て「それはそうか」と納得して、スマートフォンを取り出した。



 放課後、部活に出る気分になれずに、とぼとぼとした足取りで校門にむかっていると大河内に呼び止められる。


「よ!」


 そう言って神大に向かって、大河内は手を上げる。


「ああ」


 暗い声でそれだけ答えると、横をすり抜ける様に歩く神大に、大河内は頭をかきながら横について歩き出す。


「まぁ、元気な方が怖いわな……それで、これからどうするんだ?」

「そうだな……家に帰って、保坂の家に行ってみる」

「いないんじゃないか?」

「だとは思うけど……他には何も思いつかないから」


 神大の横を歩きながら大河内は小さく息を吐いた。


「……今日は俺もつきあうよ」

「部活はどうするんだ? 部長だろ?」

「もう、部長は引退だからいいんだよ……お前だって練習しないのか?」

「一日くらい変わんないよ……」


 その後は二人とも無言で歩き続けて、やがて校門に差し掛かった所で、神大の母の車がそこに止まっている事に二人とも気がつく。

 二人が気がついて立ち止まると、車の扉が開いて神大の母親が降りて来た。


「もう! なんで電話に出ないの?」


 そう言われて、神大は学校の机の奥にスマートフォンを置きっぱなしにしてしまった事を思い出した。


「あ、教室に忘れてきた……取って来るよ」

「そんなもの後にしなさい! ほら車に乗って! 行くわよ!」


 神大の母親は、そう騒がしくしながら運転席に戻ろうとする。


「え? どこに?」

「どこにって、鳴海ちゃんの入院している病院よ? 他にどこに行くのよ?」

「「え?」」


 その言葉に、神大と大河内は驚きの声を上げた後、お互いの目を合わせた。

 固まる二人をしり目に、神大の母親は運転席に戻ると、身体を伸ばして助手席の扉を開く。


「なにやってるの、はやくして! ああ、卓君も家まで送っていこうか?」


 そう言われた大河内は、両手を振って断りを入れる。

 神大は、何が起きてるいのか分からないまま、茫然とした顔で助手席に乗り込んだ。


「それじゃ卓君、またね」


 そう言って、神大の母親は車を出した。


 その日の夜、神大は保坂の両親に頼まれて一晩付き添う事にして病院に残った。

 保坂の両親は、暫く会社を休む為に色々用事を済ませて来るといって、その日は病院を後にした。

 神大の目の前には、静かに寝息をたてる保坂の姿があり、その手を握りしめてあげながら、ふと佳那子の事を思い出してポケットに手を伸ばし、スマートフォンを学校に忘れて来た事を思い出す。

 佳那子とは彼女が退院してから、学校で会って話せばいいかと思い、今は保坂を見守ってやる事にした。

 神大と会う事無く、佳那子が退院と同時に転校していくことになるとは、その時はつゆとも考えなかった。

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