第34話
「ハーデス様。遠路遥々、ようこそお越し下さいました」
そこは小さな集落だった。干し草と煙の匂いが混じる一帯は、煉瓦の積み重なった円柱形の家に背の高いとんがり屋根が乗っかったものが点在している。どの家も煙突がついていて、ぽくぽくと暗い空に白い煙を立ち上げていた。
ハーデスが集落に足を踏み入れると、走り回っていた子供たちは家々の陰に隠れて遠巻きに眺める。話に聞いていた通り、どんなに小さくても皆女児で、既視感のある黒の衣服を身に纏っていた。
「ああ、グローア。こちらこそ連絡をありがとう。早速で悪いのだけれど、キルケは?」
「奥でお待ちになられております。今、ご案内を」
ケルベロスが子供らに気を取られているうちに、どうやら魔女の迎えが来ていたようだった。こちらも首元から足首まで黒の衣服を着用し、その上に法衣を重ねている。胸に下げられた大きな石の嵌ったペンダントが服装の割に派手で、緑の髪は耳の上でひとつに纏められ、眼鏡の奥からちらりとこちらを見る目は品定めをしているようだった。
「そちらは?」
案の定、訝しみの取れない声でグローアは尋ねる。
「ケルベロスだよ」
「ケルベロス? お飼いになられている犬の名前と存じておりますが?」
「うん。訳あって今は人型になってもらってるんだ」
「……左様ですか」
我ながら、名前だけはよく売れていると思う。だが、自己紹介のこの雰囲気だけは、シャロンの前例があるからか窮屈に感じて仕方がなかった。
そのままうんともすんとも言わないでいると、ハーデスはおもむろに振り返ってから、シャロンの相方をしていたことを伝える。グローアは小さく頷いた。
「シャロンの……様子は如何です?」
「相も変らずよく寝ているよ。タルタロスは静かだから、休むにはちょうど良いんだろう」
「そう……ですか」
気付くと、道の脇々に黒ずくめの女がちらほらと立ってハーデスを迎え入れていた。隠れていた子どもは興味深そうにハーデスの前に歩み出て、それを諌める母親らしき女と子どもにハーデスは微笑む。
「やあ、こんにちは」
「こんにちは!」
「元気だね、良い魔女におなり」
女児は満面の笑みで頷き、それから母親の膝あたりに掴まって手を振る。その目の輝きに、ケルベロスは思わず顔を背けた。
魔女の住処は、少しの家と畑で成り立っていた。畑といっても家々の隙間に耕してあるだけで、囲いの中は千差万別だ。色とりどりの花の畑、野菜に似た何かが実る畑、人の頭蓋骨のような実が転がる畑、風もないのにうぞうぞと蠢く植物の畑、どれも一癖ありそうで近寄りたくもないが、よく見ればシャロンの台所に並んでいたものもある。
「こちらです。どうぞ」
不思議な畑に気を取られている間に、グローアは住処の最奥にあった大きな家の前で立ち止まった。古い木戸を肩で押すように開くと、まず煎じた薬草の香りがして、蝋燭がぽつぽつと灯り部屋が明るくなる。
広さはハーデスの書斎の十分の一もなく質素だが、置かれた家具はひとつひとつが上品で質の良さそうなものばかりだった。魔女の部屋だと言うが見渡しても大釜などはなく、怪しげな小瓶もわけのわからない髑髏もない。古そうな本が詰まった本棚の脇に年季の入った箒が立てかけてあるが、魔女らしきものはそれだけで、あとはがらんとした寂しい部屋だった。
ハーデスは促されるままに長椅子に腰掛け、ケルベロスもそれに倣う。とその間際、部屋の壁を伝うようにして造られた螺旋階段の上からしわがれた声が降ってきた。
「ごきげんよう。御無沙汰しております、ハーデス様。わざわざ御足労頂きまして、有難うございます。感謝致しますわ」
見上げると、想像していたよりもかなり恰幅の良い大きな老婆がゆっくりと、侍女に支えられ自身も杖をつきながら降りてくる。ハーデスはそれを見て慌てて立ち上がった。
「キルケ、そんな無理をせずとも、私がそちらへ行ったのに」
「いえいえ、ここまで来て頂くだけでも充分ですのに、お待たせしてすみません。お迎えするはずが、少しうとうとしてしまって」
階段を降り立つと、大魔女はハーデスに向かい深々と一礼する。そして、おもむろに杖を振るった。
すると、座っていた長椅子の前に対の長椅子が現れ、中央に小さなテーブルが置かれる。ついでにとばかりに空の花瓶に触れると、たちまち花が沸き立って豪勢になった。
「久しぶりにお会いいたしますのに趣向を凝らそうとしましたら、寝室をうっかり上階にしてしまって。歳は取りたくないものですわね」
言われて再び上を見ても、螺旋階段の先に部屋がありそうな気配はなかった。大魔女が一体どこから現れたのかわからないほど階段の先は遠く、暗がりに繋がっている。不思議に思っていると、大魔女と目が合った。
「あら、こちらはケルベロスかしら? 暫く見ぬ間に随分と端正な顔立ちにおなりだこと」
一目見て言い当てた大魔女に、ケルベロスはぎくりとする。もちろん、以前に会った記憶などはない。
「そうなんだ、少し前からタルタロスの門番を頼んでいてね。元の
「タルタロスといえば、シャロンの様子は如何でしょうか?」
「よくやってくれているよ。まあ、今は……」
「聞いております。シャロンは長く目覚めないとか。どのくらいになりますか?」
「あとひと月で五年になる」
「……随分と長いですね」
「長い? 以前は二百年ほど毒で眠ったと聞いていたのだが」
ハーデスの問いに、大魔女は頷く。
「あれは服毒ですから……。今回は
「キルケ、すまないが私にはその餐腹の知識がない。良ければ、詳しく教えてくれないか?」
大魔女は、侍女が差し入れた湯気の立つ茶器に匙を入れた。角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ入れてくるくると渦を作る。途端に、甘い匂いが漂った。
「長くなりますが」
「構わない」
ハーデスの頷きに、大魔女は手にした飲み物を一口含む。それからゆっくり一息ついて、ためらいがちに話し始めた。
「何から話せば良いでしょうか、餐腹とは魔女が使う解毒術のひとつでした。……と過去のものにするのには理由がございます。御存知だとは思いますが、今でこそ希少種の魔女も、遠い昔には大勢がここで暮らしておりました。魔女は生物学や方位学、占星学に魔法学など学ぶべき学問が多くあります。当時はそれぞれの学問に長がおり、皆がその地位を目指しておりました。そしてあるとき、薬学を学ぶひとりの魔女が革新的な解毒の方法を生み出したのです」
「その魔女とは? 薬学で有名ならアルチーナかな」
「いいえ、彼女の名はマティルデ、シャロンの母です。彼女の考えた手法こそが、餐腹でした」
初耳だったのか、ハーデスは目を見開く。大魔女は目尻の皺を深めた。
「餐腹はまず、仮死の文言を含む保護魔法を自ら唱えた上で毒を飲んで体内に抗体を作り、目覚めたのちに抗体を含む自らの血を使って解毒薬を作る手法です。それまで薬草などに頼る事が多かった解毒術ですが、これによりさまざまな毒に対応できるようになりました。マティルデはその偉業から毒婦と呼ばれた最初の魔女となり、多くの魔女が彼女に憧れました。毒婦になれるよう弟子入りを志願して、彼女を師と仰ぐ者は大勢おりましたし、薬学も栄えた。多くの毒を餐腹することが良いとされ、毒婦が一番多かったのもその頃でしょう」
「その割に無名だね。それほど薬学の功績があれば、書物に名を残すべきだろう」
過ぎ去った日々を思い出す大魔女は、目を伏せた。
「そうですね。でも、名を残すのに餐腹はあまりにも危険すぎたのです。森に入る前に、毒沼をご覧になったでしょう」
大魔女は、窓の外に目をやっていたケルベロスに視線をそろえた。
「あれは、餐腹に失敗した者の成れの果てですの」
「成れの果て?」
「すべての魔女が毒に耐えうるわけではありませんからね。毒に侵された身体は、時を待たずして次第に溶けます。魔女の毒沼は自らが毒に勝てないと悟ると向かう場所で、いわば同志の墓です。今はあらゆる毒が凝縮され触れることも敵わない強毒の沼ですが、最初は水たまりのようなものでしたのよ」
ケルベロスが見た沼は端が見えないほど大きかった。大魔女の言うことが本当なら、相当な数の魔女があそこで亡くなったと推せる。
「マティルデは、沼が大きくなるにつれて自らの功罪を考えるようになり、やがて一線を退きました。と、これで収束できれば良かったのですが……」
「その毒沼の毒を……餐腹する者が現れた?」
「ええ、その通りです。あれを餐腹できればマティルデを超える毒婦になり得ますからね。ですが、出来た者はひとりもいなかった。そして……」
「魔女の数が減ったのか」
「マティルデが薬学長を退いて僅か二十日で四十七名。その後も増え続ける死者に見兼ねて挑んだマティルデも例に洩れず亡くなり、遺言が『私の名を残すな』でした。だから彼女の名前はどこにもない。その後、負の連鎖を断ち切るために、餐腹をはじめとする沼の毒を使う魔法を禁呪としたのです」
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