第33話
相も変らずシャロンは起きないが、あの日を境にケルベロスも次第にその生活に慣れていった。
赤月が昇ると同時にアケローンで顔を洗いつつ、その様子を窺う。流れは日毎に早くなっていて、ミノスの話だと前庭では河原の三分の一が呑まれたらしい。
これが何を意味するのか、ケルベロスは考えぬまま遠くの空を見上げる。それからハーデスにもらったあの小さな黒い石の使い魔を呼び出してシャロンの見張りを頼み、小一時間ほどタルタロスを抜け出した。
今まで見向きもしなかった小さな草木や大地の形に目を向けるのは、意外と楽しい。蛇香の谷は歩いてみると本当に蛇のように長く曲がりくねっていて、この間はその谷底で、折ると甘い汁が出てくる背の高い草も見つけた。
雨の匂いがすれば、大きな蓮の葉を二つ三つ取ってきてシャロンが濡れないように傍に差してやることもあったし、少し南の方へ行ったところにある多角族の村の長は行くといつも食べ物をくれる。
たまに来るハーデスやペルセフォネとは悪態を交えたいつも通りの会話をして、夜には一人で大穴のそばに寄り、身体を小さく折り畳んで僅かな光を頼りに文字の練習に明け暮れた。
文字は最初こそ訳がわからなかったが、ここ最近は億劫にならずに読めるようになってきて、シャロンの傍にはいつも厚めの本が置いてある。言い回しが難しいところは、ハーデスとペルセフォネが丁寧に教えてくれたし、それこそ最初の頃はミノスが週に一度ちゃんと理解しているかを確認しに訪れた。
そんな風に過ごしているからか、死者の一人も来なくて淀むばかりに思えたタルタロスの空気も、今となっては特に気にならなかった。きっと、アケローンの向こう側、地獄の前庭ではミノスが溜まった死者の裁量に東奔西走しているに違いないだろうけれど、その姿を思うと少しだけ笑える余裕もできた。
ただその一方で、記憶の中のシャロンが死者を連れてくるあの姿を、もう薄っすらとしか思い出せなくなっている。魅せられた瞳の色も曖昧で、声に至っては不確か極まりない。
時折眺めるアケローンに、あの
そうして細かい月日を数えたりしないケルベロスを他所に冥界の大時計の針は進み、シャロンが眠り始めてから四つ進んだある時、ハーデスが珍しく正装でタルタロスへやってきた。
いつもと違う様子になんとなく嫌な予感を覚え、ケルベロスは警戒を露わにする。ところが、ハーデスはいつもの調子で挨拶すると、変わらぬシャロンを覗き込んだ。
「今日も良く眠っているね」
ハーデスもシャロンが倒れてからというもの、その目覚めの方法を公務の合間に探していた。あらゆる書物はもちろん、毒に詳しい者がいると聞けばわざわざ赴いたりして忙しいと聞く。朝食の時間もままならないのだろうか、ハーデスの口元は子供のように汚れていて、ケルベロスは会うなり嘆息した。
「お前、口の周りが汚れてるぞ。飯の途中か?」
指摘されたハーデスは、えっ、と身動いで急ぎ口元を覆う。意外にも、それを恥と思う心はあったらしい。
「行きがけに、ペルセフォネがスコーンを焼いてくれたから、木苺のジャムを塗ってひとつだけ食べてきたんだ」
はにかみながら汚れを隠し拭いた指を黒い別珍で拭うものだから、美麗なローブの袖に染みができる。冥界の王は、子供と同じだった。
「さて、ケルベロス。今日は一緒にお出かけしよう」
「は?」
「シャロンは大丈夫、結界を張っていくからね」
「いやいや、どこに行くんだよ」
「魔女の森へ」
さらりと告げた行先に、ケルベロスは目を見開く。
「ま……魔女の森って」
驚く間にもハーデスは魔法でタルタロス一帯に結界を張る。有無を言わさぬあたり同行は決定事項らしい。しばらくすると、ぴり、と結界の緊張が一瞬肌を舐めた。
「さあ、行こう。大魔女が目覚めている時間は短い。早く行かなくちゃ」
「大魔女?」
「行きがてら話そう。ほら」
ハーデスが差し出す手を怪訝に見つつ、ケルベロスは指先を重ねる。途端に足元から白い靄が立ち始めた。
「大魔女は魔女の森の長老でね、生き字引みたいな方だよ。年を召しているから眠っていることが多くて、昨日五十年ぶりに目覚めたと連絡が入ってね。彼女なら、恐らく毒婦についてよく知っている。会って話を聞く価値はあるだろう」
ケルベロスは遅れて頷いた。ハーデスの術はすでにかかっていて、ただ立っているだけで目の前の景色がみるみる変わる。時折、赤々と燃える炎が見えたり、冷風が頬を撫でたりするから、灼熱の大地や白氷山のあたりを通っているようだった。
と、不意に景色が緩んで視界がはっきりとする。
「このあたりの沼は毒婦の沼と呼ばれる毒沼なんだよ。この少し奥に、魔女の森がある」
一帯が赤黒く見える場所を、ハーデスが指さした。その向こうには、鬱蒼とした森が控えている。
「魔女の森へ入るには、約束事があるんだ。ケルベロスも倣うようにね。とは言っても簡単だよ、森の中で声をあげてはいけない、それだけだから」
「黙ってればいいのか?」
「そう。黙って私の後をついてくること。あと、魔女の住処は女性ばかりだから失礼のないようにね。あ、あと念のために使い魔の石を渡しておくよ。三度撫でれば姿を現すから、困った時にお使い」
ハーデスからの石は、何かというときに役立つことを学んでいるケルベロスは、素直に受け取った。気付くと足元の靄は消えており、森の入り口に佇んだ二人は、なんとなくその空を見上げる。
赤月の光は、鬱蒼とした森の深部まではきっと届かないだろう。案の定、すでに暗幕がかかったような暗闇を前に、ハーデスが人差し指の爪先に火を灯す。
「いいね、これから先は絶対に声をあげてはならないよ。なにがあっても、絶対に。見るもの、聞こえるもの、感じるもの、それはすべてまやかしだからね」
「は?」
どういう意味だ、と聞こうとしたその時から森へ一歩踏み出してしまったハーデスに、ケルベロスは仕方なくついていく。そのあとは特にやることもないので、しばらく無言でいなければならない意味を考えた。
見聞きするものがまやかしとは、どういう事だろう。何らかの魔法が森にかかっているという事だろうか、それとも五感に直接働きかけるような術を持つ者が潜んでいるという事だろうか。どちらにしろ、魔女の森であるからには不思議でもないが、ケルベロスはハーデスの説明不足を心の中で責めた。
僅かな光で照らし出される魔女の森の内部は、至って普通の森だった。人を襲うような妖樹もなければ、魔物もいない。湿度はやや高く、時折どこからともなく風が吹き抜けていく。何故か不気味なほど静まり返っているが、冥界の僻地にある誰もいない森と思えば仕方ない気もした。
そんな景色が続くうち、目的地まではあとどれくらいなのかが気になってくる。森に入る前に聞けばよかったと思うも時はすでに遅く、ケルベロスは次第にそればかりを考えるようになった。
ハーデスは、相も変らず前を歩く。その足取りには、一切の迷いがない。そういえば行く道は林道なのか、舗装されている。今更そんなことに気がついて、ケルベロスはなんとなくハーデスの後ろ姿を見つめた。
いつも律儀に切り揃えている銀髪が、珍しく好き勝手に伸びている。久しぶりに会うからそんなものかと思ったが、それなら今日会った時に気付かないものだろうか。不思議に思いながら次に衣装に目をやると、ケルベロスはそこにも違和感を覚えた。
ハーデスの正装の意匠は、すべて金糸で施される。これは、ハーデスの側近であれば誰もが知っている事だが、目の前のハーデスの襟元の刺繍は銀糸に見えた。
よく見れば、襟だけでなく裾も袖口もどこか細部が異なる。もしかして十分な光がないからそう見えるのかもしれないと近寄ったケルベロスは、目を凝らした瞬間、背筋に悪寒が走って思わずたたらを踏んだ。
(――これは、ハーデスではない)
逆毛立って足を止めたケルベロスを、ハーデスが振り返る。一瞬の恐怖心ののちに目を合わせたハーデスは、紛れもなく本人だった。
けれど、改めて確認した袖口に今朝見たあの汚れはない。左の肘の辺りから伸びる、別珍の流れに逆らうあの染み。振り返ったハーデスの灯す炎の下でも、確認はできなかった。
一体どういう事なのか、頭の中を整理するのに時間がかかる。目の前の人物は偽物なのか、それともなんらかの意図があって微妙に姿を変えている本人なのか識別できない。その匂いをもってしても判断できなかったケルベロスは、怪しさに平静を装いながら、無言でハーデスに道の先を促した。
別人だとすれば、いつ、どこでどうやって入れ替わったのか。でも、少しの余所見があるとはいえハーデスを相手にすり替わりは現実的ではない。
けれど本物だとしても説明がつかない。ケルベロスは堂々巡りの末にすっかり疑心暗鬼に陥った。声の制約があるから呼びかけて確かめるわけにもいかず、時間ばかりが過ぎていく。
それより、これがハーデスの言ったまやかしならば、ついて歩くのも危険だ。と、道の行く手に影が立つ。
その影は近づくにつれて、ハーデスの灯す明かりで姿を明らかにしていった。ケルベロスには、やがてそれが歩道を逸れて立つ女の後ろ姿だと分かったが、ハーデスは立ち止まることなくその脇を行き過ぎようとする。
けっして広くはない道だから、女に気付かないはずはない。フード付きの外套を目深に被る出立ちから、もしかしたら魔女の出迎えかもしれないとさえ思ったけれど、ハーデスはまるで無視するように歩く速度を緩めない。気になったケルベロスは、去り際にちらりと女を振り返る。
――フードの奥に覗いた顔は、シャロンだった。
「……!」
まさに息を呑んで声を挙げる寸でのところで、気付いたハーデスがケルベロスの口を抑え込む。そのまま反対の道脇の下草へ押し込まれて、二人して身を小さくした。
ケルベロスが喉の奥で小さく呻くにとどまったのは、いつになく真剣なハーデスの表情が眼前にあったからだ。
しばらく抑え込まれているうちに冷静さを取り戻したケルベロスは、胸で息をしながら辺りを見回す。ハーデスの灯も消えて、赤月の微かな光に照らされたシャロンは目だけで辺りを窺って執拗になにかを探しているようだった。
そのうち、どす、どす、と地面を突くような音が聞こえたが、それもやがて静まり返る。改めてシャロンの方を窺えば、その表情は、今まで見たことがないほど険しい。しかもなぜか一歩も動かず、それが酷く不気味だった。
ハーデスはケルベロスの口を押えたまま、改めて頷く。その意味を汲み取って、ケルベロスはゆっくりと立ち上がった。
人差し指を唇に一度充てがい、道の先をその指で示すハーデスに従い、息を殺したまま物音ひとつしないようにそっとその場を離れる。ふと見えたハーデスの装束の袖には、あの染みが戻っていた。
暗闇の道を、ハーデスはケルベロスの手を引いて歩く。シャロンではない何かはあとを追って来なかったが、ケルベロスは息をすることすら緊張して、ハーデスに身を任せた。
なるべく周りを見ずに手元だけを見つめていると、ある時ハーデスがちらりとケルベロスを振り返って微笑む。そこは、周りを木々に囲まれたほんの小さな野原だった。
月明かりが落ちて赤く染まる中央に円卓を思わせる大きな切り株がひとつあって、ハーデスはその前に立つ。そして、切り株の表面に指でなにやら図形を描いて文字を書くと、野原の端で森が動いた。
見れば、木々がざわざわと左右に分かれて寄り合い、真ん中に道を作る。その道の始まりでは地中から茨がせり出し、絡まり合いながら伸びて、やがて人がひとり通れるくらいの門になった。ハーデスは、すべての変化を見届けてからその門をくぐる。
「さあ、魔女の住処までもうすぐだよ」
門をくぐった途端喋りかけたハーデスに、後に続くケルベロスは無言で頷く。そのまま数秒後にもう喋っても良いのだと気付いて、強張っていた肩の力を抜いた。
「いやいやいや、お前、もう声出していいのかよ」
喋ってはいけないという制約が外れるとこんなにも楽なものかと思いながら、ケルベロスは早速ハーデスを責める。
「よくわかんねえけど、色々おかしいだろこの森。魔女の結界だけじゃなかったのか」
「ごめんごめん、ノームのことだよね。ここには、入る者に幻覚を見せて道に迷わせる精霊がいるんだよ」
「幻覚……、じゃあ俺の前を歩いてたのはずっとお前だったのか?」
「何か違って見えたかい?」
「ああ、髪が微妙に長かったり、襟元の刺繍が違ったり、今朝つけたばかりの袖の汚れがなかった」
「わあ、僕のことをよく見てるんだね」
「違う。あんなのハーデスの側近ならすぐわかる」
すると、ハーデスはわかったように大きく頷いた。
「そう、そうやって偽物ではないかと疑心暗鬼にさせてこのままついて行ってはいけないと思わせ、ひとりにさせようとするんだよね」
ケルベロスは心当たりがありすぎて黙り込む。やっていることは悪戯程度に過ぎないが、声を出してはいけないという制約があると非常に性質が悪く感じた。
「最後の……あれは違うだろ?」
「ああ」
詳しく言わないまでも理解した風のハーデスは、少し難しい表情で頷いた。
「あれはプラノーンといって、魔女が植えたちょっと厄介な植物だよ。道脇にいてね、目が効かない代わりに声で獲物を探すんだ」
「それで声を出しちゃ駄目なのか」
「うん。長く生きているプラノーンは思考を読み取って、知り合いに姿を変えることが出来るようになる。それで、思わず声をかけてしまうと食われてしまうんだ。ケルベロスには誰が見えた? よほど驚いていたけれど」
「……シャロン」
ハーデスは目を丸くした。何故そんなに驚くのかわからなかったが、ケルベロスは続ける。
「道の端でずっと立ってたけど、お前は見えてなかっただろ? 素通りしようとしてたぞ」
「一定以上の魔力があれば、どんなに化けようとプラノーン本来の姿にしか見えないからね」
その言い草にケルベロスは少し悔しくなったが、鼻を鳴らすに留めた。
「ここの森は
「でも、安易に斬ると彼らはもれなく倍に増えるんだよ」
「じゃあ燃やせ」
「燃やすと自身で百の種を蒔くよ。しかも成長が早くて、寿命が長い。だから、プラノーンに出逢ったら黙ってやり過ごすのが鉄則なんだ。放っておけば、親の体が朽ちて子が生まれるだけだから、数は変わらない」
したり顔のハーデスに、ケルベロスは『あのなあ』と突っ込む。
「そもそも説明不足だぞ。あんな危険な森でうっかり死ぬとこだったじゃねえか」
「あはは、ごめんね。最初から手を繋いでいけば良かったね」
「そういうことじゃねえ」
長く続く一本道をひたすら歩くと、周りの木々がまばらになり、赤月の光が足元まで届くようになる。見通す先にはぽつぽつと家らしきものが見え始め、耳を済ますと子供の声がした。
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