ケルベロスと赤い悪魔

第7話

 その日、ケルベロスはいい匂いで目を覚ました。なんとも言えない、鼻先を掠める香ばしい香り。導かれるようにゆっくりと目を開けると、ぼんやりと視界が霞む。


「ん……」


 ずいぶんと心地良い感覚が身体にある。

 ケルベロスは、油断すると深い泉に堕ちていくような意識のまどろみの中にいた。薄らあたたかくて、瞼を閉じれば何も考えずとも宙に浮くような、記憶の淵をなぞるような空間。それと薄目に見える暗がりとを、瞬きするたび行き来する。やがて、境に見える暗がりの方が多くなって瞼の裏に何も感じなくなると、かわりに理性が目覚め、自分が仰向いていることに気付いた。

(え……?)

 我に返ると同時に、ぞわりと鳥肌が立つ。途端に鮮明に見えた天井の梁に慌てて飛び起きると、かかっていた布がはらりと膝に落ちた。


 毛布――。犬の時に世話になったことは一度も無いが、冷え込む朝などにハーデスがこれに包まって王城の中庭をふらふら歩き、ペルセフォネに怒られていたのは何度か見かけたことがある。そして、ケルベロスはそれが眠るために必要なものであることも知っていた。

「まさか、寝てた?」

 言葉にしたものの、俄かには信じられなかった。だが、膝の上の毛布証拠に血の気が失せ、狼狽えずにはいられない。基本的に眠ることがないケルベロスにとって睡眠は不覚、恥に等しかった。


「嘘だろ、なんで……」

 動揺から独り言つが、あり得ない失敗はケルベロスをしばらく呆けさせる。どうしてこうなったのか、なぜ自分が此処にいるのか、いくら考えても思い出せないどころか頭痛がしてくる。そして、辿れない記憶にひとしきり悶々としたあと、ケルベロスはまだ暖かさが残る毛布に目をやった。


 当然この毛布に覚えはなく、自ら包まって横になったとは考えにくい。じゃあ誰がと考えてハーデスの顔が一番に浮かんだが、そういった記憶はまったくなかった。


 そもそも、この部屋だっていったい何処なのか見当もつかなければ、どれくらい眠ってしまったのかもわからない。万万が一、自分でも驚くほど長く眠ってしまっていた場合どうしたものかと考えて、ケルベロスは蒼褪めた。

「……気持ち悪い」

 感じる雰囲気の気味悪さと体調的な意味合いの両方から呟き、ケルベロスはベッドの上で大きなため息を零した。


 眠ってしまったという傷心からか、頭がいつになく重い気がする。黙っていればくらくらと眩暈もしそうで再び横になってはみたが、いくらそうしたところでまた眠りに落ちるわけでもない。ただ、身体を包むふんわりとした柔らかな感触は思いの外気に入り、何気なく手元の毛布を手繰り寄せた。


「……これ、いいな」

 ケルベロスはまだ残るぬくもりの中で目を閉じてみる。触れただけでこの心地良さなら、包まって出歩くハーデスの奇妙な挙動も頷けた。不眠の特性が邪魔をしようとも眠っていた感覚を思い出したくなるような気分は、恥をさておいても魅力的である。とはいえ、本当に眠ることのできないケルベロスは、その不毛な時間に気付いて再び起き上がった。

「っていうか、ここどこだ? ハーデスの所か?」


 目を凝らしても、部屋の中には寝台以外に取り立てて何もない。窓はカーテンが閉められていて、外の様子を伺うことも出来なかった。暗がりに目が慣れてくると、遠くの燭台に真新しい蝋燭が刺さっているのがわかったが、同時に大きな部屋の扉にも気付いたので、ケルベロスはそちらに向かうことにした。


 王城に住んでいたとはいえ、身体の大きさのせいで内部には詳しくないからこの場所に覚えはない。けれど、ケルベロスは倒れた自分の面倒を見るならハーデスしかいないと思い込んでいた。だから当然ここが王城の中だと疑いもしなかったのだが、廊下だと思って扉を開けた先にいたのはハーデスとは違う、見覚えのある後ろ姿だった。


「……シャロン!?」

「あ、起きた」

 背を向けていたシャロンは、小うるさく自分の名前を叫んだケルベロスを振り返る。そこは簡素な居間だった。

「おはよう。良く寝てたわね、不眠のくせに」

「なんでお前がいるんだよ」

「……なんでって、あんた昨日のこと忘れたの?」

 すかさず手にしていた林檎を放ったシャロンは、そのあと洗い物の手を払って雫を落とした。

「昨日……?」


 ケルベロスは林檎を受け取り改めて考え込むが、内心では危惧していたよりずっと短い睡眠時間に安堵していた。シャロンはそれを呆れた様子で見つめ、顎で傍のテーブルを指す。

「食べるなら、どうぞ。私はもう行くから」

 黒塗りのテーブルには、匂いのする茶色い水と白い皿の上に丸い物が二つ置かれていた。目覚めに嗅いだ良い匂いの元はこれであると思われたが、なんなのかはよくわからない。そういえば、ハーデスとの食事でもテーブルに似たようなものがあった気がするが、その時は肉に気を取られてしまったのを思い出した。


「これ……なんだよ」

「どこからどう見てもパンでしょ。失礼ね」

「パン……?」

「呆れた。パンも知らないの? れっきとした食べ物よ」

「ハーデスが持ってきたのか?」

「違うわよ、私が焼いたの」

「焼いた?」

「……作ったの。細かい工程は教えないわよ」

 

 シャロンが用意したと聞いて、ケルベロスは一瞬たじろいだ。毒女であるからには、こちらも細心の注意を払わねばならない。

「……食えるんだろうな」

 横柄な態度で言いながら食卓の椅子についたケルベロスは、林檎を横に置いて訝しげに皿の上のパンを見つめた。見たところ怪しげな感じはしないが、強いて言うなら所々に見える干涸びたような粒が気になる。

 少し急いだ様子で壁に立てかけてあった櫂を手にしたシャロンは、それを横目に音もなくケルベロスの後ろを通り抜ける。その際に、寝癖のついた頭を思いきり殴った。


「痛って!!」


 突然襲った激痛に、ケルベロスは殴られた箇所を押さえる。恨めしそうな目が、言わずとも殴った理由を聞いていることに気付いたシャロンは、わざとらしく腰に手を当て鼻を鳴らした。

「なんとなく腹が立ったから」

「なんとなくで殴るなよ! なんなんだよ、お前!」

「毒なんて入ってないわよ。食べるならさっさと食べなさいよ」

「だって、この黒いのなんだよ? 怪しいだろ」

「干し葡萄よ。葡萄、ほら山に野葡萄がなってるでしょ。それを取って水分を飛ばして保存食にしたの」

「葡萄って、あの?」


 ケルベロスにとって葡萄とは山の木に絡まって生える小さな房であって、食べた事はない。だから、こんな風に細かく粒に分けて食べるなんて考えもつかないが、人型になると確かにこの大きさに不合理を感じない。

「これが葡萄……」

「紅茶……、その陶器に入っている飲み物に砂糖を入れるなら、その瓶の中よ。白い四角いの、入ってるでしょ」

「なんだこれ」

「角砂糖。入れて溶かすと甘くなるわよ」

 甘くなる、と言われてケルベロスはおもむろに瓶を開ける。そのような臭いはあまりしなかったが、とりあえず三つカップに入れておいた。


「どうでもいいけど、ぼんやりしてないでちゃんと仕事してよ。……って、ああ大変。もう時間だわ」

「起き抜けからうるせえな、お前は」

 今朝も変わらぬ言い合いのあと、シャロンは急いで外への扉を開ける。煉獄山の地響きが先程から聞えているから、時を知らせる狼煙が上がるまではもう少しのようだった。

「なあ、俺なんで寝てたんだ?」

「……やあね、本当に覚えてないんだ」

 背後から聞こえた声に、シャロンは出かけの足を止めて振り返る。それから一瞬、外の様子を窺って戻った。


「葡萄酒よ。……その葡萄は干してあるけど、生のまま潰して加工すると酒になるの。その酒を飲んで、あんたは潰れたのよ」

「潰れるってなんだ?」

「酒に酔って前後不覚になることよ。あんた尋常じゃなく酒に弱いみたいだから、これから気をつけた方がいいわ。タルタロスの門番が酒で手懐けられちゃ、話にならないもの」

「酒……?」

 しん、と静まり返った部屋で昨日の記憶を辿って一人呟いたケルベロスは、あるとき閃いて手を叩く。

「あれか。お前が仕掛けた、あの変な発酵臭がする紫の毒……」

「馬鹿じゃないの? そんなわけないでしょ、ただの飲み物よ」

「飲み物? あれが?」


 味といい匂いといい俄かには信じ難くて、ケルベロスは顔を顰める。だけど、毒であったらこんな風に目覚めはしないだろうから、シャロンの言うことは本当なのだろう。とりあえず、あの匂いがするものは酒であると記憶した。

「じゃあね。ちゃんとお皿は片付けておいてよ」

「ああ、早く行け」

 食えるのか、なんて訝しんで聞いたもののパンに齧り付くケルベロスをシャロンが笑い、開け放していた扉を閉める。見送ったケルベロスは、それからおもむろにテーブルに頬杖をついた。

 

 ――眠ってしまった。

 一人きりになると、再び自省の念に追われる。不本意ではあるが、ここはひとつシャロンの言うことを聞いて、その葡萄酒とやらはもう飲まないようにしようと心に固く誓った。と、誓いを立てたそばから、なにやら絶えずふつふつと音がしていることに気が付く。


 不審に思ったケルベロスが部屋を検めれば、端の方に黒い鉄製の大釜が天井から太い鎖で吊るされているのを見つけた。それは下に敷かれた薪で火にかけられており、耳についた音はその沸騰でできた気泡が弾ける音らしかった。

 絶えずに上がる蒸気が上手いこと煙突に吸い込まれて行くのをしばらく眺めたあと、ケルベロスは欠伸交じりに視線を落とす。その釜の周りは魔女が持つといわれているエニシダで作られた箒や、大小種類も違えば元が何かもわからない髑髏、向こうが透けて見える水晶に、色の付いた小瓶などが棚に所狭しと置かれていた。


「ここはあいつの家か。魔女は妙な家に住んでるな」

 言いつけを忘れたケルベロスは、空になった皿をテーブルに残してふらりと立ち上がる。そして、林檎を齧りながら興味本位で大釜を覗いた。だが、その中の毒々しい緑色に、思わず一歩引き下がる。

「……なに作ってんだ、あいつは」

 ぼこぼこと大きな気泡が破裂するたび、白い蒸気が舞い上がる。それを吸うだけで具合が悪くなりそうな謎の液体をケルベロスは怖いもの見たさでもう一度覗いたが、中に白い骨が浮いているのを見つけてその場を離れた。

 

 そのままぐるりと見回せば、大釜の一角の異質さを除いて部屋は簡素だった。

 小さな流しと黒塗りの樫木テーブル、それに椅子。他には背の高い箪笥と食器棚がひとつあるだけで、それすら硝子戸の向こうに見える食器の数より余白の方が多い。小綺麗といえば聞こえは良いが、どちらかというと生活感がない部屋に気圧されたケルベロスは、いつまでもうろうろと部屋を廻る。そして、今しがたシャロンが出て行った扉の前に立った。


 黒い金枠に嵌った両開きの扉は、金の取っ手が眩しいくらいに輝いている。彫刻された花々の中でも目を惹くのは水仙か――。と、ケルベロスはその扉とまったく同じものが王城の壁面にあるのを思い出した。

 大きさは違えど、何故同じものが――とよく見れば、取っ手は手垢で擦れた様子もない。シャロンの住む家にしては拭いきれない違和感を覚えたケルベロスは、そのまま扉を勢いよく開いた。

 

 始終闇に閉ざされる暗い冥界で、唯一輝く赤月。それに、目線を落とせば広がる閑散とした大地とアケローンの流れ、大きく口を開けたタルタロスが見てとれる。空風に舞う埃以外に特筆するものもない淋しい場所に、突如建物が現れた理由をケルベロスは知っていた。



 

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