第6話


「さあ、召し上がれ」

 

 玉座の間での一件のあと、落ち込む二人を他所にハーデスはあっという間にその場に豪華な食卓を作り上げた。広がる臙脂えんじ色のテーブルクロスに金縁の食器、濃紫の別珍が張られた椅子は肘掛の細工が細かく、そこに従者が運ぶ食事はどれも見事なものであった。


 しかし、どんなに勧められても並んで席についた二人の食欲が上がるはずもない。シャロンは、ワイングラスに注がれた酒にとりあえず口をつけると、伏し目がちにぼやいた。

「……本当に最低。この何か月かは人型になったケルベロスを見に来る奴が増えるし、大迷惑。本当に大迷惑」

「しつこいぞ。俺だって好き好んでこの身体になったわけじゃねえよ。元はといえばお前のせいだろう、お前の!」

「あんたこそ、いつまでも片隅で不貞腐れて未練がましいのよ。っていうか、その見物客に向けて刃物振り回して、さらに注目浴びてるのは何処の馬鹿よ? あんたがあのケルベロスだって知れるほど、これからあんた相手に戦って名を上げようって奴がたくさん来るわよ」

「そういう奴は全部殺す」

「だから、その単細胞加減をどうにかしろっていうの、馬鹿犬」

 刃のような言葉が飛び交い、隙あらば睨みあう。室内には、再び一触即発の空気が漂った。

 

「えー……っと」

 

 ハーデスが仲裁に立ち上がろうと腰を浮かす。その時、広間の扉が急に開いた。一転、漂う花の香りに全員が振り返る。広間に足を踏み入れたのは、冥界の者は誰も着ない白い服を纏い、ふわりと宙に浮く薄い羽衣を肩に羽織る女性だった。

「あら、お客様ってシャロンちゃんだったのね」

「ペルセフォネ様!」

 名前を呼ばれたシャロンが、弾かれたように立ちあがる。シャロンから僅かに羨望を含む視線を受ける女性は、ハーデスの妻ペルセフォネだった。

「ペルセフォネ。待っていたよ」

「素敵な食卓ね、遅れてしまってごめんなさい」

 ペルセフォネは憂いの碧眼を向けながら、二人に恭しく頭を下げた。


 天界を治めるゼウスの娘でありながら、半ば押しかけるようにして自ら冥界の王ハーデスに嫁いだ過去を持つペルセフォネは、冥界には有り余る気品を備え持つ皇妃だ。

 元は天界の王族、しかも春の女神であったペルセフォネがその地位を捨ててまでハーデスの妻となった理由は定かではなく、冥界の七不思議の一つである。しかしながら、永くハーデスを公私共に支える姿に冥界の民は感服し、今や冥界の女王として、また偉大な王の良妻として認められ、敬服されている。シャロンもそのひとりのようだった。

 

「シャロンちゃん、お久しぶりね。お会いするのは新年の祝賀会以来かしら」

「ええ、ペルセフォネ様もお変わりなく」

「お仕事忙しいと聞くわ。無理しないで、何かあったらまた相談して頂戴ね」

 それから、ペルセフォネは迎えに行ったハーデスに手をひかれ、案内された椅子に腰掛ける前にケルベロスの方へ寄った。小さく屈んで小首を傾げると、ドレスの裾がふわりと空気を含む。


「はじめまして、わたくし、ハーデスの妻ペルセフォネと申します。どうぞお見知り置きくださいませね」

 優雅な所作で他人行儀にあらたまったペルセフォネは、ケルベロスに対して一礼すると無邪気にシャロンに尋ねる。

「シャロンちゃんのお知り合いの方?」

「ええ……まあ」

 問われたシャロンは困ったように答える。するとペルセフォネは、勘が働いたとばかりに目を見開いた。

「もしかしてシャロンちゃん、この方とご結婚の報告でも?」

「ちっ、違いますわ! 冗談はおよしになってください!」

 ケルベロスとシャロンとを交互に見て両頬に手を充てたペルセフォネに、シャロンはいつになく真剣に否定する。

「あら、じゃあなにかしら? 交際するのに、別にハーデスの許可なんていらないのよ?」


 ペルセフォネは、ねえ、とハーデスを振り返り同意を求めた。

「ああ、そういえば、ペルセフォネにはちゃんとケルベロスの話をしていなかったっけ」

「ケルベロス? あの子はタルタロスで頑張っていると聞いておりますけれど」

「うん。その彼がケルベロスだよ」

 ハーデスは、席について暇そうに目の前の皿を小突くケルベロスを指す。虚を衝かれたペルセフォネは、不思議そうにケルベロスと目を合わせた。

「嫌だわ、ケルベロスは可愛らしい犬だったはずよ。あなたこそ、御冗談はおよしになって」


 うふふ、と笑うペルセフォネはケルベロスに向かって会釈をすると、ぺちん、とハーデスの腕を叩いた。叩かれたハーデスの方も、あはは、と笑いながら首を横に振る。二人が作る独特の間延びした雰囲気に眉をひそめたケルベロスは、構わず目の前にあった肉の塊に手を伸ばした。

「ちょっと前に人型形成の術をかけてね。人型にしてみたんだ」

「まあ、そうなの? じゃあ本当にケルベロス?」


 視線を送るペルセフォネに、ケルベロスは無言で頷く。

「あらあら、知らなかったわ、また随分と印象が変わったわね……。でも、こちらも親しみやすくていいわ。ねえ、ケルベロス」

 そこでケルベロスは、鷲掴みにしていた肉を皿の上に置く。

「冗談じゃねえよ。人の形なんて動きづらくて」


 動きづらい、といって動かした指は、すでに食事で汚れている。食事作法はもちろん、食器の使い方もわからないケルベロスは、フォークとナイフなどの銀食器にはまったく手をつけていなかった。それに気付いたハーデスは、そっとケルベロスの傍に寄る。

「その割に脱走者をもう何人も捕まえたりね、色々と活躍してくれているんだよ」


 ハーデスは、ケルベロスの皿にあった肉をナイフとフォークで切り分けて見せると、その一切れをフォークに刺してケルベロスに渡してやった。

「こうやって使うんだよ、ケルベロス。人型になったのなら食事の作法も一応学ばないといけないね」

「面倒臭い」

「いけないわ、ケルベロス。折角ハーデスに良い男にしてもらったのだから、ある程度のたしなみはつけないと」

 

 二人に言われてしまったケルベロスは、まるで子供のように不貞腐れる。でも、その後ちゃんとフォークを使っていることに気付いたシャロンが笑った。

「お二人の前では素直なのね」

「うるせえよ、お前は黙ってろ」

 茶化すシャロンを睨んだケルベロスは、たどたどしくフォークを口に運ぶ。その間に、ハーデスはペルセフォネの席まで付き添い、椅子を引いた。

「ケルベロス、門番のお仕事はどうなのかしら?」

「退屈だな」

「でも、シャロンちゃんに会いに来る者も多いでしょう?」

 

 言われて思い出したケルベロスは、眉をひそめてシャロンを振り返る。

「……そういえば、お前に会わせろって奴がたまにいるな。なんでだ?」

「知らないわよ、私に聞かないで」

 すると、ペルセフォネが代わりに答えた。

「シャロンちゃんは見ての通り美人さんじゃない。それに魔女としても優秀だし、仕事も出来るし、優しいし。わざわざタルタロスへ赴いてでも、自分の物にしたいと思う者が多いのよ。当然と言えば当然なのだけれど、ちょっと大変よねえ」

「そんなことありません。私などよりペルセフォネ様の方がずっとお綺麗だし、慈悲深くて聡明でいらっしゃいます。きっと奴らは冥界の渡守が珍しくて見に来るのですわ」

 シャロンは慌てて否定した。その隣で、謙遜するシャロンという珍しいものを見たケルベロスが首を傾げる。

 

「……わからねえな。こんな気の強い女の何が良いんだ?」

「あら、気が強いのは女の魅力のひとつよ。……そうだわ、ケルベロスをタルタロスにやったのなら、そこに二人の為のお家を建てたらどうかしら。ケルベロスが一緒にいてくれるのならシャロンちゃんのことも安心だし、いくら不眠とはいえ、ケルベロスだって身体を休める場所が必要でしょう?」


 ペルセフォネは、名案とばかりに手を打った。もちろんハーデスは大きく頷いて、つい先程完成したばかりの悪夢のような住まいの話を繰り返す。

「タルタロスは今、靄もすっかり晴れて前よりずっと明るくなったんだよ」

「まあ、そうですの。それなら、窓の大きな家がよろしいわね」

「うん。場所が場所だから建物はあまり大きなものではなくて、小さな可愛らしい家なんだけれど」

「ハーデスの作ったものなら、きっと素敵なのでしょう。是非見に行きたいわ」

「ああ、じゃあ今度一緒に行こうか。満月の日には、月明かりがタルタロスの谷間に差し込んで織りなす影がとても美しいんだよ。ついでに、立枯れの沼地の青色を見に行くのもいいね」

 二人の住まいを差し置いて話は弾み、手持無沙汰になったケルベロスは、ふと、置いてあるワイングラスに目を止めた。

 

 中には葡萄酒が注がれていたのだが、ケルベロスは葡萄酒を知らない。しかし、先程から怪しげな香りを放ち、その赤紫の影が食卓のクロスの上に映し出されているのは気になっていた。食事の小休止とばかりにその美しさに誘われて手を伸ばしたケルベロスは、おもむろにそれを口に含む。ところが、まもなく小さく呻いて、すぐに吐き出した。

 

「なっ……んだこれ!」

 

 ケルベロスは胸を押さえて咽せる。苦しそうな咳込みが続いて、持っていたグラスを置くことさえままならずに、がちゃん、と音を立てて倒した。

「やだ、ちょっと、ケルベロス?」

 食卓に突っ伏してしまったケルベロスは、幾度か名を呼ばれゆっくりと顔を上げる。血色ばんだ顔色と荒い呼吸に皆が緊張を走らせると、ケルベロスはシャロンと目が合って一言、恨めしそうに呟いた。


「気持ち……悪……っ。お前、まさか毒……?」

 ケルベロスはそのまま意識を失う。途端に椅子から崩れ落ちた大きな体躯が、どさりと床にのびた。

「……あなた」

「うん、どうしよう」

 突然のことに驚くペルセフォネを置いて、とりあえずハーデスは倒れたケルベロスに近寄った。

 

 ケルベロスは目を閉じて、苦しそうに眉根を寄せている。ハーデスはそれを直すように眉間を撫でると、赤くなったケルベロスの頬に触れた。万一に備えてすぐに魔法がかけられるようにしながらなおも様子を窺うと、まもなく小さな寝息が聞こえてくる。ハーデスは、安定して繰り返される呼吸音に笑った。

「ハーデス様?」

「大丈夫、酔っぱらっちゃったみたいだ」

 濡れ衣を着せられて困惑するシャロンに、ハーデスは微笑む。

「もう、あなたったら嫌ですわ。可哀そうに、ケルベロスはお酒に弱いのかしら? 知らずに悪いことをしてしまったわね」

「いいえ、たった一口でこれでは、弱いという次元の問題じゃありませんわ。本人も服毒と勘違いして、真っ先に私を疑っておりましたし」


 シャロンは、床に倒れ込んだケルベロスを一瞥する。赤ら顔の犬は随分と幸せそうに眠っていた。

「ケルベロスは不眠の特性があったのでは?」

「……ああ。でもそういえば、幼い時は美しい音色が聞こえてくると眠ってしまうことがあったかな。まさか、酒が入っても寝てしまうとは思わなかったけれど」


 柔らかな寝息を立てて熟睡に入ったケルベロスを前にして、ペルセフォネが『可愛らしい事』と微笑む。うん、と頷いたハーデスは『さて、どうしよう』と腕を組んだ。

「こうなってしまっては、御二方にも迷惑がかかりますでしょう。折良くハーデス様に住まいも頂いたことですし、今日のところは連れて帰ることにしますわ」

 シャロンは、傍の椅子に立てかけてあった櫂をおもむろに手にする。

「でも、大変では? いいんだよ、二、三日ならこちらで面倒を見るから」

「今更なにをおっしゃいます、ハーデス様。この男と組まされた時から、大変なのは百も承知ですわ。明日も死者は参りますし、こちらでのんびりと寝てもらっても困りますもの」


 シャロンは気遣うハーデスに伝えると、広間の大きな窓を振り返った。そして、迂闊にも黙っていればいい男だと思ったことは内緒にして、眠るケルベロスの首根っこを捕まえる。


「たしかに何かあっても、この手合いはシャロンに任せておけば安心だけれど」

「ええ。明日には変わらずまた報告に上がりますわ。それより、折角食事の席を設けて頂いたのに中座することをお許し下さいませ」

「そんなこと。是非また一緒にお食事しましょう。その時はケルベロスのお酒に注意しましょうね」

「ええ、楽しみにお待ちしておりますわ。それでは、重いのでこちらから飛ばせてもらってもよろしいでしょうか?」

「ああ、もちろんだよ」


 並ぶハーデスとペルセフォネに向けて深く一礼したシャロンは、目の前の窓を開け放つ。次に、ケルベロスの腹のあたりに櫂をくぐらせると、魔法を使って櫂ごと宙に浮かせた。

 それはまるで物干し竿に干されたような姿ではあったが、当のケルベロスはそれでも表情一つ変えずにいることから文句もないのであろう、深く眠ったままだった。


「それでは、失礼致します。ごきげんよう」

 いつもよりも少しだけ櫂の先の方に腰かけたシャロンは、最後に会釈をすると、開け放たれた窓の縁をそっと蹴った。ふわりと宙に浮かんでしばらく、振り返ればハーデスとペルセフォネが仲良く並んで見送っているのが見え、シャロンは闇夜の中、似合いの夫婦にもう一度頭を下げた。


 ――冥界の夜。それは赤月が沈むほんの僅かな真の闇の時を指す。

 シャロンが見つめる航路は櫂の先に灯した灯りが儚く照らし、降りた帳の中で煉獄山も明日の時を知らせる為に眠る。空も大地も真っ暗に溶け合い、鬼火の里だけが煌々と、たまに誰かの住処が点の光で見えた。

 

 シャロンは、ふと後ろの荷物を振り返った。ケルベロスは、相も変らず良く眠っている。

「不眠のあんたが寝てどうすんのよ」

 その眠りが何時いつぶりなのか、シャロンには到底予想もつかない。けれど、眠りの深さからして余程久しぶりなのだろうと思えば、せめてぐっすり眠らせてやろうと、シャロンは気持ちゆっくりと空を飛んだ。

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