第17話

 いや、ひとりだけ例外が居た。ジェロムである。


(矢張り、こいつはあの時の!)


 リュドヴィックの洞窟で、ジェロムが側頭部に衝撃を受けて気絶する寸前に聞いた、あの地鳴りを誘う咆哮。それと全く同じ響きが今、彼の鼓膜を強烈に振動させていた。


「ひぃっ!」


 ほとんどの者が身動きもままならない中で、マルセラン配下の武装兵ひとりが、上ずった悲鳴をあげて身を翻した。そのまま下り口の斜面に向かって、足場の悪い岩畳に悪戦苦闘しながら駆け出してゆく。

 すると、巨獣の三角形に尖った鼻先が、逃げ出そうとしているその男の背に向けられた。


「ば、化け物だっ!」

「逃げろぉ!」


 続いて、他の武装兵達も慌てて下り口方面へ逃げ始めた。起伏の激しい岩場である。

 彼らは必死に両手足を動かしてバランスを取りつつ、脱出を試みようとしていた。

 ジェロムは巨獣と、逃げるマルセランの武装兵達とを瞬間的に見比べた。


(どっちだ!? あの化け物はどっちに向かってくるんだ!?)


 単純に距離だけを見れば、川べりに散開しているジェロムと調査隊員達の方が巨獣に近い。

 しかしあの巨獣の目は、下り口の斜面に殺到しつつあるマルセランの武装兵達に向けられている様だった。

 ジェロムがごくりと唾を飲み込んだ時、巨獣が動いた。

 腰太のがっしりした下半身の左右に、これまた大木並みの太さを誇る強靭な後肢が二本、膝でくの字に曲がりつつも、地面に向かってほぼ垂直に下り立っている。

 巨獣は、この後肢を前後に激しく回転させた。

 足先の三つ指から生える尖った爪で岩畳をしっかりと噛み、軽快な音を響かせながら猛然と走り出したのである。

 その速さは人間の成人が平坦な地を全速力で駆け抜けるよりも、更に速いのではないかとさえ思われた。

 巨獣は、瞬く間に下り口付近に達した。逃げ出そうとしていたマルセランの武装兵達の間に恐慌が広がる。


「ぎゃあっ!」

「た、助けてくれぇっ!」


 それらの悲鳴は、しかしすぐに意味を伴わない奇妙な響きに変じた。

 巨獣の大きく開かれた顎が彼らの上半身を手当たり次第にとらえ、次の刹那には血と内臓をぶちまけた下半身が食い捨てられていた。

 巨獣は淡々と、目の前で腰を抜かしている哀れな犠牲者達を食い続けている。その様は、餌を漁る鶏の動作にも似ていた。

 夕刻を迎えようとする西陽の河原は、血と肉片を具財とする真紅に彩られた。


「ひっ……ひぅっ!」


 ジェロムの隣で、ミネットが小さな両掌を口元に押し当て、押し殺した短い悲鳴を漏らした。全く意味が聞き取れない、妙な声であった。恐らく本人も、何をいっているのか分かっていないだろう。


「ジェ、ジェ、ジェロム、様!」


 調査隊員達が続々と、ジェロムの周囲に集まってきていた。

 彼らはいずれも真っ青な顔になってはいたが、それでも隊長たるジェロムの指示がない限りは、決して逃げ出そうとはしていなかったのである。


「ジェロム様! わ、私どもは、一体どうすれば!?」


 しかし、答えられない。言葉が喉の奥で引っかかり、そこから舌の先に乗ろうとしないのである。

 ジェロムは、奥歯ががちがちと鳴るのを感じた。両太ももが小刻みに震えている。

 彼の脳裏では討伐隊が壊滅した光景が、鮮明な映像として甦ってきていた。

 マルセランの悲鳴とも泣き声ともつかぬ、呼吸混じりの甲高い声が響いてきたが、ジェロムの意識の中では遠いところから流れてくる雑音にしか感じられなかった。


(ど、どうする……どうすれば良い!?)


 頭の中が真っ白になる寸前ではあったが、ジェロムは辛うじて理性を保ちつつ、思案を続けた。

 このままではいずれあの巨獣の餌食になる。その前に何か、策を講じなければならない。

 ジェロムの視界の中で、巨獣が前傾姿勢のまま、こちらに鼻先を向けた。一瞬、無機質な眼差しがこちらに向けられたように感じた。

 次は、こっちの番か――自分でも驚くほど冷静に分析したジェロムだったが、その隣で、それまでひと言も発せずに河畔の惨劇をじっと眺めていた黒衣の巨漢が、酷く間延びした声を発した。


「そろそろ、何ぞ仕かけねばなりますまいな」


 腕を組んだまま超然と佇んでいたデュガンは、感情らしい感情を一切消し去り、まるで他人事の様な調子でいい放った後、ジェロムに顔を向けてきた。

 この状況を、全く危機とは感じていないかの如き平静さであった。


「し、仕かけるって、一体何を!?」


 情けないほどに声が震えている。

 自分でも分かってはいたが、止められるものではない。だがとにかくも、ジェロムはデュガンの真意を測りかね、そう訊かずにはいられなかった。


「幸い、それがしにとって足場の悪さは、さほど問題にはなり申さんでな。軽く仕かけてみて、あの化け物に隙がないか見てみとうござる」

「そ、そんな……幾らなんでも、ひとりでは無茶です!」


 ジェロムは叫んだ。

 その直後、視界の隅で三つ指の足が動いた。

 巨獣が、こちらに一歩踏み出しかけていたのである。ジェロムは、はっと息を呑んだ。


「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」


 不意に、デュガンが朗々と吟ずるように唱えた。


「故国を離れ、最初に達した国で読んだ兵書の一節にござる。ちと局面は異なるが、あの化け物の動きを精確に把握せんうちは、対処のしようもなかろう」


 デュガンは巨獣からジェロムへと視線の先を変えてきた。射抜く様な鋭さを秘めた漆黒の瞳は、ある意味、あの巨獣よりも更に獰猛な光を湛えているかとも思えた。

 ジェロムは額を伝う脂汗を拭った。


「ですが、一体どうやって!? あんな化け物が相手なのですよ!? そんな、口でいうほど簡単なものじゃないでしょう!」

「今、我らが為すべきはいい争いではござらん。それともジェロム殿は何もせずに全員を見殺しにせよと?」


 デュガンの突き放すかの様な反問に、ジェロムは、はっと口をつぐんだ。


(見殺し……)


 そのひと言が、胸にぐさりと突き刺さる。

 ジェロムは肩越しに振り向いた。

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