アロファイト

革酎

第1話

 フランス中央平原から僅かに西方。

 その、とある洞窟内にて――。

 騎士ジェロム・ディオンタールは、ごくりと唾を飲み込んだ。


「この扉の向こうに、奴が」


 左の掌を、腰に吊るした長剣の鞘頭にそっと触れさせてみた。

 いざとなったら、頼れるのはこの長剣だけだ――ジェロムは緊張した面持ちで前方を見据える。

 彼は、愛用の武具に頼れば大丈夫だと、何度も自分にいい聞かせていた。

 嫌な汗が、全身から隈なく噴き出している。

 ジェロムは、革鎧のアンダーウェアとして綿の厚手シャツを着込んでいた。この厚手シャツが大量の汗を吸い込んでおり、背中や脇に容赦なく張りついてきている。

 或いはまた、妙に幼さを残すその顔立ちに不快な表情を誘うが如く、滝の様な汗が額や頬をべとべとに濡らしてしまっていた。

 彼のやや長めの金髪も、毛先に大きな滴を垂らす。頭部を覆う革製冑が内側で蒸れる上に、サイズが合わない為か、窮屈でならなかった。

 ジェロムは汗が沁みて痛む碧眼をごしごしと擦りながら、左右を一瞥した。

 部下の城兵達も皆、例外なく汗にまみれていた。

 ある者は、濡れた額を手の甲で拭う。

 またある者は、ジェロムと同じように唾を飲み込みつつ、苦しそうに喘いでいる。そうかと思えば、硬い表情で全身を強張らせている者も居る。

 更にジェロムは、視線をより外部の周辺に這わせた。

 一部の城兵達が手にする松明は、殺風景な岩肌を上下左右に浮かび上がらせている。

 暗闇が支配する広大な空間。その内側に突入して以降、全く変わり映えのしない風景がしばらく続いていたのである。

 しかし彼らはようやく、目的とするものに迫ろうとしていた。

 極悪非道なる魔術師リュドヴィックを討伐する。

 その為に編成されたこの部隊は、リュドヴィックのアジトとされる洞窟内に侵入してから、相当長い時間、ひたすら足を前へ前へと進めていた。最初のうちこそ、一歩あたりに要する時間と歩数とを読んで、移動時間をある程度把握しようと努めていたジェロムだったが、途中からはもう分からなくなってしまっていた。

 今、彼らの目の前で一つの巨大な木製扉が行く手を阻んでいる。これを越えれば、いよいよリュドヴィックと対決の時だ。


(よし、やるぞ)


 ジェロムはひとつ深呼吸を済ませ、腹をくくった。

 これまでの人生で経験した記憶のない緊張感を、意識して忘れようとする。彼は一ヶ月前に十六歳の誕生日を迎え、そしてつい先日、騎士の叙任式を終えたばかりであった。

 このたびの討伐隊は、ジェロムにとっての初陣なのである。


「総員、抜刀」


 部隊の先頭に立つ頑健な体格の中年騎士が、静かな息とともに命令を吐き出した。

 刃が鞘を走る無機質な金属音が、一斉に響いた。松明の炎に照らされた白銀の光の群れが、洞内で幾つも煌いた。


「ジェロム」


 中年騎士が肩越しに振り向き、声をかけてきた。

 指示を受けたジェロムは小さく頷き、中年騎士の脇をすり抜けて扉の前に出る。彼は分厚い革製の手袋に守られた左手で、扉の取っ手を軽く握った。

 罠を疑わせる手応えはなさそうである。


「パトリス殿。問題なしです」


 ジェロムは視線を木製扉から外し、彼に指示を出した中年騎士に頷きかけた。

 部隊のリーダーを務めるその中年騎士パトリス・グラビュの蒼い瞳に、僅かながら安堵の色が灯ったように見えた。


「ジェロム。お前のタイミングで良い。頼むぞ」


 パトリスの低く絞った声に頷いてから、ジェロムは両開きになっている扉の一方を、力任せに押した。

 ずしりと重い感触が、彼の左手から肩に伝わってきた。それでもジェロムはお構いなしに、木製扉を一気に押し開いた。


「突入!」


 パトリスの号令が響く。

 扉の向こうに飛び込んだジェロムに続いて、残りの面々も勢い込んで殺到した。


「リュドヴィック!」


 ジェロムは自身を鼓舞するかの如く、腹の底から吠えた。

 ところがその直後、彼は全身が雷にでも打たれたかの様な衝撃を覚えて、その場に立ち尽くした。否、彼だけではない。

 部隊のほとんどの者達も愕然と凍りつき、闇の中で広がる光景に呆然と見入っていた。


「むぅ、これは」


 背後で、パトリスが唸った。

 松明が照らし出しているのは、真紅に染まる血肉の大海原であった。

 一体、どれほどの人数が犠牲になったのか。考えるのも嫌になる。

 少なくとも、松明の光が届く範囲の地面には、屍肉と血液以外に見えるものがない。

 視界内の屍肉はその大半が、無造作に積み上げられている。その為、この空間内を移動するにはこの屍肉の山を踏みつけていく必要があった。

 中には一部、牛や馬、或いは豚などの屍肉もあるようだったが、しかし矢張り、圧倒的に人間のものが多かった。

 それも老若を問わず、男女を問わず、である。


「こんな小さな子供まで……」


 ジェロムの足元に、幼児のものと思われる小さな掌が放置されていた。

 彼は全身を震わせて歯噛みした。自分達が支配者層としてもっとしっかりしていれば、リュドヴィックなどに多くの命を奪われずに済んだ筈だ――。


「くそっ、リュドヴィック、どこだ!?」


 ジェロムが放った激昂の雄叫びは、松明の照明範囲を超えて闇の中に吸い込まれていった。天井は相当高いのだろう。彼の声は遥か頭上で、殷々と響いて反射した。

 そんな彼の怒りに応じるかの如く。

 不意に、息切れしそうな調子の乾いた笑いが陰湿な空気を震わせた。

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