第9話 《 特 別 》


物音ひとつ立てず、入口のかたわらに立ったまま、

ミーナ=クロイツは平静を装っていた。


──この部屋の温度は、平時より2℃ほど低い。


制御AI《アントリウム》が、対象の心理状態を安定させるための設定だ。

細部に至るまで、記録と管理の対象となっている。


それでも、彼女の手のひらには微かな汗が滲んでいた。

気づかれぬように、指先を白衣のポケットに滑らせて拭う。


「付き添い」としてここに立っているはずなのに、

胸の奥がざわついて仕方がない。


──ヴェインが、扉を開けて、しっかりと礼節を払い、自ら名乗った。


瞬間、部屋の空気が変わったのを、ミーナははっきりと感じた。


ノア・フェーアリヒトの視線。


その熱が、明らかに他の研究員たちに向けていたものとは違う。


いつもなら、無表情なまま、会話を必要としない観察者として彼女はそこにいた。

それが今日に限って、ノアは──まるで、会話の“始まり”を待っていたかのように、


何かに期待のこもった目で、わずかに微笑んでさえいた。


(……そんな反応、見たことない)


心臓がひとつ、大きく打った。


焦りにも似た感情が、胸の奥にひそやかに生まれる。


それは、自分自身でも思いがけないほど強い、否定されることへの恐れだった。

──自分は、ずっと時間をかけて彼女に向き合ってきたはずだった。


今まで訪れた研究員の誰よりも、彼女の人間性に配慮した接し方をしてきた。

ノアの「沈黙」を理解し、「拒絶」に傷つくことなく、ただ寄り添ってきた。


なのに。


ヴェインは、一言交わしただけで、

その壁を ── まるでそこには初めから存在しなかったかのように、

あっさりと、超えてしまった。


(やっぱり、…… “特別” な人間なのね)


ミーナは唇を噛みそうになるのを、辛うじて堪えた。


一瞬でも表情に出せば、AIはそれを記録する。


今この部屋で起こるすべての反応は、

いずれ首都本局の関係者に渡る「監査記録」だ。


顔ひとつ歪めることすら ──評価の対象となる。


まぶたを閉じ、静かに深呼吸する。

その仕草すらも、記録されていることを意識しながら。


自分はあくまで「同席者」であり、干渉者ではない。

この部屋における研究者としての主導権は、ヴェインにある。


──私がここにいるのは、彼がまだ正式な面会権限を持っていないから。

権限を持つ自分が同席しなければ直接接触の承認は下りなかった。


だが、自分はただの「付き添い」だと、自分自身に言い聞かせるほどに、

心の奥で別の声がささやく。


──この光景を、本当は “待ち望んでいた” のではないか。


理屈ではなく、証明によって周囲を変えていく瞬間を。

希望と不安のすべてを、その背に背負って、未来を選び取っていく姿を。

願わくば、それは自分でありたかったが…


(あのとき、配属初日。──あの瞳を見たときから)


もしかしたら、と。期待していたのかもしれない。

自分にはできなかった“何か”を、彼なら成し遂げてくれるかもしれない、と。


でも、こうして目の当たりにしてしまえば、

──それは同時に、自らの敗北でもあった。


ミーナは意識的にゆっくりと指先に力を込め、

無言のまま、室内のやり取りを見つめ続ける。


笑っているノア。


言葉を交わすヴェイン。


それを記録するAIの、無機質な監視。


──彼は、すでに踏み出した。


世界を大きく変えるかもしれない、小さな一歩を


(ならば私は、その背を見届ける者になる。今は…それでいい)


そんな決意を抱きながらも、心の奥に残るわずかな痛みが、

彼女の表情をほんの一瞬、曇らせた。


だが、誰にも気づかれないように ──それは、即座に消された。



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