第8話 《 あなたの おなまえ なんですか? 》

──時は少しだけさかのぼる。


部屋の照明はいつもよりわずかに明るかった。

制御AI《アントリウム》が調整したのだろう。

今日が「面会日」だということを、部屋の空気すらも知っているようだった。


ノア・フェーアリヒトは、部屋の中央に置かれたスツールに腰をかけながら、

扉の向こうをじっと見つめていた。


そこから人がやってくる──それだけのことに、胸の奥が静かにざわめいている。


妙だった。こんな感覚、これまでなかった。


彼女はこれまで、数えきれないほどの“観察”を受けてきた。


採血、脳波測定、反応テスト、思考パターンの記録──

記号としての〈Z-17〉にしか、誰も興味を持っていなかった。


彼らは一様に、時に一切言葉を交わすことすらなく、数値を記録し、

表情の変化をみて、観察の記録を綴り、少しの差異に一喜一憂するだけ。


まるで人形のように扱われていた。


……ただ一人、ミーナ=クロイツだけは、ほんの少し違った。

声をかけてくれた。返す言葉に耳を傾けてくれた。

視線を合わせて、観察への同意を求めてきた。


それでも、ノアの心のなかでは、

彼女もまた“研究員”という枠から外れることはなかった。


けれど、今日来るその人物 ──

昨晩、極偏光窓マジックミラー越しにときから、何かが引っかかっていた。


年若い。

けれど、ただの若さとは違う。

曖昧な心の輪郭の奥に、静かで、鋭いものを感じた。

何かを問い、探し、拒まずに進む人間の光。


ノアは、その時点で何らかの「違い」を感じていた。


── でもどうせ、また他の研究員と同じような人が来る。


そう決まっているはずなのに、なぜか胸の奥がざわついた。

こんな風に“待つ”こと自体、初めてだった。


音がした。

ゲートが開く。


── 期待と警戒、両方からくる緊張で息が少しだけ浅くなった。


「失礼します」


その声を聞いた瞬間、ノアは目を細めた。

この空間に入ってくるとき、そんなこと言った研究員は ──


今まで一人もいなかった。


優しくしてくれてたミーナさんでも、入室して『調子はどう?』くらいだったし…


なにそれ、と喉の奥まで出かかった言葉を抑えて、すこし“観察”する


姿を現した彼は、やはり若かった。

けれど、その背筋には妙な落ち着きがあった。

彼が自分から名乗ったとき、ノアは思った。


── ああ、わたし、この人のこと、やっぱり“気になってた”んだ。


「ノア・フェーアリヒト。……それが今の、わたしの名前」


静かに立ち上がり、胸に手を当てて名乗り返しながら、

自分の中に芽生えつつある、どこか不思議な感覚を噛みしめる。


心がわずかに膨らんで、熱を帯びていくような気がした。


「ねえ、最初に “失礼します” って言ったでしょ。……あなた、本当に変な人ね」


声に出すと、少しだけ気が楽になった。

そう、これはまだ“確認”の段階。


この人が、他とどれだけ違うのか。


この揺らぎが何なのか。


── それを、ちょっとづつ確かめていけばいい。


そんなふうに思える自分が、今はほんの少しだけ、好きだった。

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