第20話「世界の再構成」




朝の授業中、黒板の文字が溶け始めた。


チョークで書かれた数式が、蝋燭の蝋のように垂れ落ちていく。白い筋が黒板を伝い、床に小さな水溜まりを作る。生徒たちは気づいていない。ノートに向かい、熱心に書き写している。ただ朱璃だけが、世界の歪みを認識していた。


「先生」


朱璃は手を挙げた。


「黒板が、溶けています」


霧島は振り返った。その顔は、一瞬別人のものに変わり、すぐに元に戻った。若い顔、老いた顔、そして見知らぬ誰かの顔が、重なっては消える。


「何も起きていませんよ、朱璃さん」


しかし、彼の声は二重に聞こえた。現在の声と、過去の声が重なって。いや、三重、四重。まるで、複数の時間軸の霧島が同時に存在しているような。


「座りなさい」


朱璃は座った。しかし、世界の異常は加速していく。


休み時間、廊下を歩いていると、床が波打ち始めた。まるで水面のように。一歩踏み出すごとに、波紋が広がる。朱璃は壁に手をついたが、壁もまた柔らかく、指が沈み込んだ。


「世界が、再構成されている」


隣を歩く柚希が呟いた。彼女にも、ようやく異変が見え始めている。


「夢と現実の境界が、完全に崩壊し始めてる」


窓の外を見ると、空に亀裂が走っていた。稲妻のような黒い線が、青空を切り裂いている。その隙間から、別の空が覗いている。夜の空、朝の空、夕焼けの空が、モザイクのように混在している。


「これは、まずい」


柚希の顔が青ざめた。


「このままでは、世界そのものが——」


言葉は続かなかった。廊下の壁が透明になり、隣の教室が透けて見える。そこでは、同じ授業が行われているが、生徒の顔が全員同じだった。同じ顔、同じ表情、同じ動作。


「見える?」


柚希が震え声で聞く。


「見える」


朱璃は答えた。そして理解した。あれは、システムが目指す理想の形。全員が同じ夢を見、同じ記憶を持つ世界。


生徒会室を目指して走る。廊下は、走るたびに長さを変える。時に無限に続き、時に一瞬で終わる。


ドアを開けると、藍沢が窓際に立っていた。


「予想より早いわね」


彼女は振り返らずに言った。その姿は、既に半透明になっている。


「世界の再構成。これが、システムの最終段階」


「最終段階?」


「全ての生徒の意識を統合し、一つの巨大な夢を作り出す。それが、このシステムの真の目的」


藍沢の影が、通常とは逆方向に伸びている。いや、影が複数ある。過去の藍沢、現在の藍沢、未来の藍沢の影が、それぞれ別の方向を向いている。


「最初は、単純な実験だった」


藍沢の告白が始まる。


「生徒の夢をコントロールし、理想的な教育を行う。悪夢を見なくなり、皆が幸せな夢を共有する」


「でも、志音の存在が計算を狂わせた」


朱璃が続けた。


「その通り」


藍沢は振り返った。その顔は、もう人間のそれではなかった。データの集合体のように、ピクセル化している。


「彼女は統合を拒み、独立した意識として存在し続けた。そして、あなたという異分子を生み出した」


突然、部屋の壁が消えた。生徒会室は、巨大な空間の一部となる。学園全体が、一つの有機体のように蠢いている。


「見える?」


藍沢が言った。


「これが理想の形。全員が同じ夢を見、同じ記憶を持つ。苦しみも、悲しみも、嫉妬もない。完璧な統一」


朱璃は吐き気を覚えた。


「そんなの、生きているとは言えない」


「でも、苦しみもない」


藍沢の声は諦念に満ちていた。


「私も、もうすぐあちら側に行く。妹を守るために、システムに協力してきたけれど、もう限界」


彼女の体が、さらに透明になっていく。


「でも、妹はどこ?」


朱璃は気づいた。藍沢の妹を、一度も見たことがない。


「最初に消された」


藍沢は微笑んだ。悲しい笑顔。


「10年前、志音の次に実験台になった。そして、失敗した。存在ごと消去された」


朱璃は息を呑んだ。


「それなのに、なぜシステムに協力を?」


「いつか、取り戻せると信じていた。消された記憶も、どこかに保管されていると」


藍沢は窓の外を見た。もう、窓も壁もない。全てが溶け合っている。


「でも、無理だった。妹は、本当に消えた。存在の痕跡すら残っていない」


「藍沢さん……」


「朱璃、あなただけが、まだ個を保っている」


藍沢は朱璃に向き直った。


「詩織と志音と柚希の記憶を抱えながら、それでも朱璃として存在している。それは、奇跡よ」


「どうすれば、これを止められる?」


「止められない」


藍沢は首を振った。


「でも、変えることはできるかもしれない」


そう言い残して、藍沢は完全に消えた。後には、生徒会長の制服だけが床に落ちていた。いや、床ももうない。全てが、曖昧な空間に浮かんでいる。


朱璃と柚希は、崩壊する学園を走った。


階段は、上りながら下る。廊下は、真っ直ぐなのに円を描く。時間も空間も、意味を失っている。


「朱璃!」


柚希が叫んだ。彼女の体も、透明になり始めている。


「私も、もう——」


「諦めないで!」


朱璃は柚希の手を掴んだ。しかし、手応えが薄い。


屋上に出ると、そこは既に別世界だった。


空は万華鏡のように変化し続け、床は水晶のように透明で、下の階が全て見通せる。そして中央には、巨大な白いドアが立っていた。


「来ると思った」


ドアの前に、志音が立っていた。しかし、いつもと違う。実体を持った、現実の姿で。


「どうして……」


「世界が再構成されているから」


志音は悲しげに微笑んだ。


「夢と現実の区別がなくなれば、私も現実に存在できる。でも、それは——」


「全ての終わり」


朱璃は理解した。


学園全体が振動し始めた。建物が歪み、時計塔が傾く。そして、生徒たちの声が聞こえてくる。いや、声ではない。全員が同じ言葉を、同じトーンで繰り返している。


「夢は一つ、記憶は一つ、私たちは一つ」


機械的な合唱が、学園を包む。窓から見える生徒たちは、皆同じ動きをしている。歩調を合わせ、同じ方向を向き、同じ表情で微笑んでいる。


「恐ろしい」


柚希が震えた。


「これが、システムの求める平和?」


「違う」


志音が首を振った。


「これは平和じゃない。死よりも恐ろしい、存在の否定」


時計塔が、ついに倒れ始めた。しかし、音はしない。静かに、ゆっくりと、地面に吸い込まれていく。


「まだ間に合う」


志音が朱璃の手を取った。


「白いドアの向こうに、全ての始まりがある。そこで、選択をしなければならない」


朱璃は柚希を見た。


「一緒に行く」


柚希は言った。その体は既に半分透明だが、意志は強い。


「最後まで、あなたと一緒に」


三人は手を繋いで、白いドアに向かった。


ドアに触れた瞬間、世界が反転した。


朱璃たちは、巨大な赤い海の上に立っていた。足下には何もない。ただ、赤い水面に立っている。不思議と、沈まない。


「ここは……」


「記憶の海」


志音が答えた。


「全ての生徒たちの意識が溶け合った場所。集合無意識の具現化」


海は、静かに波打っている。その一波一波が、誰かの記憶。誰かの感情。誰かの人生。


「美しい」


柚希が呟いた。


「でも、悲しい」


確かに、美しかった。赤い海は、夕焼けのように輝いている。しかし、それは無数の個性が溶け合い、一つになった結果。


「あれを見て」


志音が指差す先に、小さな島が浮かんでいた。他の全てが液体化している中で、唯一固体を保っている場所。


「あそこに、答えがある」


三人は海の上を歩いた。一歩進むごとに、波紋が広がる。そして、波紋と共に、記憶が立ち上る。


知らない生徒の初恋。

誰かの卒業式。

家族との別れ。

友達との約束。


無数の記憶が、朱璃たちを通り過ぎていく。


「これが、みんなの人生」


朱璃は涙を流していた。いつの間にか。


「消された人も、統合された人も、みんなここにいる」


島に近づくにつれ、記憶の密度が上がっていく。より古い記憶。より深い記憶。


そして、ついに島に着いた。


島の中央には、古い学習机が一つ。その上に、赤いペンと夢報告書が置かれていた。


「ここが、全ての始まり」


志音が言った。


「10年前、私が最初に夢報告書を書いた場所」


朱璃は机に近づいた。すると、周囲の風景が変わった。


赤い海が消え、10年前の教室が現れる。まだ新しかった机。壁には、生徒たちの作品。そして、窓の外には、燃えていない塔。


幼い志音が、机に向かっている。赤いペンを持ち、真剣な顔で何かを書いている。


「見て」


現在の志音が言った。


「これが、全ての始まり」


幼い志音が書いていたのは、最初の夢報告書。


『今日、不思議な夢を見ました。みんなが同じ顔をしていて、同じことを考えている夢。とても怖かったです。でも、少し羨ましかった。みんなが同じなら、一人ぼっちにならないから』


朱璃は息を呑んだ。


「これが……」


「私の恐怖と願望が、現実になってしまった」


志音の声は、深い後悔に満ちていた。


「システムは、私の夢を読み取り、それを実現しようとした。全員を同じにすることで、孤独をなくそうとした」


場面が変わる。実験室。無数のケーブルに繋がれた志音。そして、彼女の夢が、他の生徒たちに感染していく様子。


「私の夢が、ウイルスのように広がった」


現在の志音が、苦しそうに言った。


「そして研究者たちは、それを利用することにした。効率的な教育。統一された価値観。理想的な社会」


さらに場面が進む。システムの構築。夢の管理。記憶の統制。そして、数々の犠牲者。


「もう十分よ」


柚希が志音を抱きしめた。


「あなたのせいじゃない。あなたはただ、寂しかっただけ」


突然、激しい振動が起きた。赤い海が荒れ狂い、波が高く立ち上がる。


『初期化シークエンス、開始』


機械的な声が響いた。


『全生徒の記憶を初期状態に戻します』


「始まった」


志音が言った。


「これが、システムの最終手段。全てをリセットして、最初からやり直す」


朱璃は理解した。これが繰り返されてきたのだ。問題が起きる度に、全てを初期化して、同じことを繰り返す。永遠のループ。


「何回目なの?」


朱璃は聞いた。


「分からない」


志音は首を振った。


「でも、今回は違う」


朱璃は赤いペンを手に取った。


「私は記憶を保持したまま、ループを越える」


ペンが激しく振動した。システムが拒絶反応を起こしている。


「無理よ!」


志音が止めようとした。


「システムに逆らえば、あなたの存在自体が——」


「消えてもいい」


朱璃は静かに言った。


「みんなを、この永遠の悪夢から解放できるなら」


朱璃は夢報告書に書き始めた。しかし、書いているのは夢ではない。真実を。全ての真実を。


『この学園は、夢に囚われている』


文字が赤く光り、世界が激しく震えた。赤い海が、さらに荒れる。


『10年前から、同じループを繰り返している』


ペンが熱くなる。まるで、燃えているように。しかし、朱璃は書き続ける。


『生徒たちは気づいていないが、何度も同じ日々を生き、同じように消され、同じように統合されている』


「朱璃!」


柚希が叫んだ。朱璃の体が、光り始めている。


『私は覚えている。詩織としての記憶も、志音の一部も、柚希の想いも。そして、これまでの全てのループの記憶も』


「嘘……」


柚希が呟いた。朱璃の言葉と共に、彼女にも記憶が戻ってくる。前のループ、その前のループ。何度も繰り返された、同じ日々。


『もう、終わりにする』


朱璃が最後の一文を書いた瞬間、世界が真っ白に染まった。


全てが、光に飲み込まれていく。

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