第2話「夢の中の制服」




朝の教室に、赤いペンを走らせる音が響く。


カリカリという音が、まるで虫の羽音のように重なり合う。私も夢報告書に向かっていた。昨夜の夢を、懸命に思い出しながら。


『廊下を歩いていた。どこまでも続く廊下。扉は全て白かった』


ペンが止まる。それから?


『扉の一つに手をかけた。でも、開かなかった』


これだけ? いや、もっと何かあったはずだ。誰かがいた。銀色の髪の──


「皆さん、時間です」


霧島先生の声で、手が止まる。まだ書き足りない。でも、もう思い出せない。


「今日は夢報告会を行います。自分の夢を皆の前で発表してもらいます」


教室にざわめきが走る。報告会。柚希先輩が言っていなかった。


「順番は──そうですね、窓際の列から始めましょう」


私の列だった。


最前列の男子生徒が立ち上がる。緊張した面持ちで、報告書を手に前へ出る。


「昨夜、僕は図書室の夢を見ました」


彼の声は震えていた。


「本棚が天井まで続いていて、梯子を登っても頂上が見えませんでした。そして、一番上の棚に、光る本がありました」


「その本は開きましたか?」


霧島先生が尋ねる。


「いいえ。手を伸ばした瞬間、目が覚めました」


「なるほど。知識への憧れと、それに到達できない焦燥感。良い夢です」


次の生徒。また次。

皆、似たような夢を語る。白いドア。終わらない階段。届かない何か。


私の番が近づいてくる。胸が高鳴る。


理子が発表を始めた。

「私は、また白いドアの夢を見ました」


また?


「今度は、ドアの向こうから声が聞こえました。誰かが私を呼んでいる。でも、やっぱりドアは開きませんでした」


霧島先生が頷く。

「白いドアは、この学園でよく見られる夢のモチーフです。興味深いですね」


なぜ皆、同じような夢を見るのか。偶然とは思えない。


「次、朱璃さん」


立ち上がる。足が震える。報告書を持って、教壇へ。


クラスメイトたちの視線が集まる。知らない顔ばかり。でも、どこか既視感がある。まるで、ずっと前から知っているような。


「私は──」


声が掠れる。咳払いをして、もう一度。


「廊下の夢を見ました。白い扉が並んでいて、その一つを開けようとしました。でも──」


言葉が止まる。

本当は、もっと見たはずだ。銀髪の少女。古い制服。でも、それを言っていいのか。


「でも?」


霧島先生が促す。眼鏡の奥の目が、じっと私を見つめている。


「開きませんでした」


嘘ではない。でも、全てでもない。


教室の空気が、微妙に変わった。生徒たちがひそひそと囁き合う。


「ほら、やっぱり」

「転校生も同じ夢を」

「白いドアは避けられない」


霧島先生が手を上げて、静寂を作る。


「朱璃さん、他に覚えていることは?」


「......いえ、それだけです」


嘘だった。

でも、なぜか本当のことを言ってはいけない気がした。


席に戻る。理子が小声で言った。

「皆、最初はそうなの。白いドアの夢を見るようになる。不思議でしょ?」


残りの生徒たちの発表が続く。

驚くほど似通った夢ばかり。まるで、同じ映画を別の角度から見ているような。


そして、誰も彼も「古い制服を着た少女」については触れない。

私だけが、彼女を見たのだろうか。


報告会が終わり、通常の授業が始まる。

しかし、集中できない。窓の外を見ると、時計塔がそびえている。


秒針が、相変わらず逆回転していた。


昼休み。

屋上への階段を見つけて、上ってみる。生徒は少ない。風が心地いい。


柵に寄りかかり、学園を見下ろす。

中庭、体育館、寮。そして、少し離れた場所に、古い建物が見えた。


「あれは旧校舎よ」


振り向くと、見知らぬ上級生が立っていた。長い黒髪、整った顔立ち。生徒会の腕章を付けている。


「立ち入り禁止になってるけど、時々明かりが点くの。不思議よね」


「あなたは?」


「生徒会長の藍沢涼子。あなたが噂の転校生ね」


藍沢先輩は、私の隣に立った。彼女からは、微かに花の香りがする。


「夢報告会はどうだった?」

「皆、似た夢を見るんですね」

「ええ。この学園の七不思議の一つよ」


七不思議。どこか懐かしい響きだ。


「他には?」

「逆回転する時計、消える生徒、夜中に聞こえる歌声......まあ、よくある学園伝説よ」


消える生徒。

その言葉に、胸がざわつく。


「消える、というのは?」

「ある日突然、いなくなるの。そして誰も、その生徒のことを覚えていない。まるで最初から存在しなかったみたいに」


藍沢先輩は、遠くを見つめていた。その横顔に、陰がある。


「先輩は、信じているんですか?」

「さあ、どうかしら」


曖昧な答え。でも、その目は真剣だった。


午後の授業中、奇妙なことが起きた。


数学の時間、黒板に書かれた数式を写していると、ノートの文字が滲み始めた。赤いインクが、まるで生き物のように紙の上を這う。


そして、文字が変わった。

数式ではなく、メッセージになった。


『今夜、会いましょう』


瞬きをすると、元の数式に戻っていた。

隣の理子のノートを盗み見る。普通の数式だけ。


私だけに見えた? いや、そんなはずは。


放課後。

図書室に寄ってみる。司書はおらず、静寂が支配していた。


夢に関する本を探す。心理学、神話、文学。でも、どれも一般的な内容ばかり。この学園特有の「夢報告書」については、何も書かれていない。


棚の奥に、古い写真集を見つけた。

歴代の卒業アルバム。ページをめくる。


十年前。二十年前。三十年前。

どの時代も、生徒たちは同じような制服を着ている。


待って。


ある写真で手が止まる。

十年前の卒業アルバム。そこに写る女子生徒の一人が、見覚えのある顔だった。


銀色に近い髪。青い瞳。

間違いない。昨日、廊下で会った少女だ。


でも、十年前? それなら彼女は今──


「その本、借りてもいい?」


声に驚いて振り向く。男子生徒が立っていた。眼鏡をかけた、大人しそうな少年。


「あ、いいえ。見ていただけです」

「昔の写真って、面白いよね。時々、不思議な人が写ってたりする」


彼はそう言って、別の本を手に去っていった。


写真をもう一度見る。

少女の名前の部分が、なぜか黒く塗りつぶされていた。


夕方。

帰り支度をしていると、理子が声をかけてきた。


「朱璃さん、一緒に帰らない?」

「ええ、いいわよ」


二人で昇降口へ向かう。

夕日が廊下を赤く染めている。


「ねえ、朱璃さんは怖い夢って見る?」

「怖い夢?」

「うん。最近、白いドアの向こうから、泣き声が聞こえるの。女の子の声」


理子の表情が曇る。いつもの明るさが消えている。


「それで、ドアを開けようとするんだけど、絶対に開かない。向こうの子はずっと泣いてて......私、助けてあげたいのに」


理子の声が震えていた。


「きっと、ただの夢よ」


慰めの言葉を口にする。でも、この学園で「ただの夢」なんてあるのだろうか。


バス停で別れ、一人になる。

空は茜色に染まっている。時計塔のシルエットが、黒く浮かび上がる。


家に帰ると、部屋でしばらく考え込んだ。

十年前の写真の少女。志音と名乗った彼女。もし本当に同一人物なら、彼女は今も十代のまま。


ありえない。

でも、この学園では、ありえないことが起きている。


夕食後、宿題を済ませてベッドに入る。

今夜は、どんな夢を見るのだろう。


目を閉じる。

意識が沈んでいく。深く、深く。



廊下に立っていた。

見覚えのある廊下。でも、何かが違う。


壁の色が、微妙に褪せている。

床の木目が、年月を感じさせる。

そして──


生徒たちが歩いている。

でも、その制服が違った。


黒いセーラー服。長いスカート。白いスカーフ。

昔の制服だ。


彼らは私に気づかない。まるで、私が透明であるかのように。


「おはよう」


振り向くと、志音が立っていた。

やはり、古い制服を着ている。


「ようこそ、私の時間へ」

「あなたの時間?」

「そう。十年前の記憶。私がまだ、普通の生徒だった頃」


志音は微笑んだ。でも、その笑顔はどこか寂しげだ。


「どうして私を──」

「あなたに見せたいものがあるの。ついてきて」


志音は歩き始める。私も後を追う。

廊下を進むにつれ、景色が変わっていく。


新しい校舎から、古い校舎へ。

今は使われていないはずの、旧校舎。


「ここは──」

「私たちの教室よ。十年前の1年B組」


扉を開ける。

教室には、生徒たちがいた。皆、夢報告書を書いている。


「あの頃から、この制度はあったの」


志音が自分の席を指さす。窓際の、後ろから二番目。

今の私の席と同じ場所。


「偶然じゃないわ。あなたがその席に座ることは、決まっていた」

「どういう意味?」

「いずれ分かる。今は、これを見て」


志音が黒板を指さす。

そこには、赤いチョークで何かが書かれていた。


『夢は伝染する』


「最初は、一人の生徒から始まった。白いドアの夢。それが次第に広がって、皆が同じ夢を見るようになった」


生徒たちの顔を見る。

皆、疲れ切った表情をしている。目の下にクマがある。


「毎晩、同じ夢。逃れることはできない。そして──」


志音の声が途切れる。

教室の一角を見つめている。


そこには、空席があった。


「彼女は、消えた」

「消えた?」

「夢の中で、白いドアを開けてしまったの。そして、現実からも消えた」


志音の瞳に、涙が浮かぶ。


「親友だった。でも今は、名前すら思い出せない。記録も、写真も、全て消えた。まるで最初から存在しなかったように」


教室が揺れる。

景色が歪み始める。


「もう時間ね。でも、覚えておいて」


志音が私の手を取る。

氷のように冷たい手。でも、確かな温もりを感じる。


「白いドアは開けてはいけない。絶対に」


景色が崩れる。

教室が、廊下が、全てが闇に飲み込まれていく。


「待って! まだ聞きたいことが──」

「また会えるわ。夢の中で」


志音の姿が薄れていく。

最後に見えたのは、彼女の悲しい微笑みだった。


「朱璃......あなたは、私の──」


言葉の続きは、闇に消えた。



目が覚めた。

朝日が窓から差し込んでいる。六時十五分。


身体を起こすと、手首に跡があった。

誰かに握られた跡。志音の──


いや、夢だ。ただの夢。

でも、この跡は?


制服に着替えながら、昨夜の夢を反芻する。

十年前の教室。同じ席。消えた生徒。


そして、志音の警告。

『白いドアは開けてはいけない』


学園への道中、理子のことを思い出す。

彼女は白いドアの向こうから泣き声を聞いている。もし、ドアを開けようとしたら──


急がなければ。


学園に着くと、いつものように生徒たちが夢報告書を書いていた。

理子の姿を探す。


いた。いつもの席で、赤いペンを走らせている。


「おはよう、理子」

「あ、朱璃さん。おはよう」


彼女の顔色が悪い。目の下にクマがある。

十年前の生徒たちと同じように。


「大丈夫? 顔色が──」

「うん、ちょっと寝不足で。また、あの夢を見たから」


白いドアの夢。


理子の報告書を、さりげなく覗き見る。

そこには、昨日より詳細な内容が書かれていた。


『ドアノブに手をかけた。冷たい金属の感触。回そうとしたが、やはり動かない。でも今日は、ドアが少し、ほんの少しだけ開いた気がした』


危険だ。

このままでは、理子も──


「理子、その夢のこと、もう少し詳しく──」


「席について下さい」


霧島先生が教室に入ってきた。

話は後回しになった。


今日の夢報告会。

また同じような夢が語られる。白いドア、届かない光、終わらない階段。


そして、新たな要素も加わっていた。


「最近、夢の中で他の生徒を見るようになりました」


ある男子生徒が言った。


「同じクラスの人が、同じ夢の中にいるんです。でも、話しかけても反応しない。まるで幽霊みたいに」


教室がざわつく。

夢の共有。それは新しい段階なのか。


霧島先生は興味深そうに頷いた。

「集団的無意識の発現かもしれませんね。大変興味深い」


集団的無意識。

ユングの概念。でも、これは理論を超えている。


理子の番が来た。

彼女は立ち上がるのも辛そうだった。


「私は......また白いドアの夢を見ました。今度は、ドアが少し開きました」


息を呑む。

開いた?


「中は暗くて、何も見えませんでした。でも、確かに誰かがいる。泣いている女の子が」


「その子の姿は見えましたか?」


霧島先生の質問。


「いえ。でも......なぜか、その子が私を呼んでいる気がしました。『助けて』って」


理子が席に戻る。

彼女の手が震えていた。


授業が終わってから、理子を呼び止める。


「理子、お願いがあるの」

「なに?」

「白いドアを、開けないで」


理子は驚いた顔をした。


「どうして? あの子を助けてあげたいのに」

「それは罠かもしれない。危険よ」

「罠? 朱璃さん、何か知ってるの?」


どう説明すればいい。

十年前の記憶? 志音という少女? 消えた生徒?

信じてもらえるだろうか。


「とにかく、約束して。ドアは開けない」

「......分かった。朱璃さんがそう言うなら」


理子は頷いた。でも、その目には迷いがあった。


放課後、図書室で調べ物をする。

十年前の記録。新聞、学園の広報誌、何でもいい。


司書に尋ねると、古い資料は地下書庫にあるという。

特別な許可が必要だと言われたが、藍沢先輩の名前を出すと、すんなり鍵を貸してくれた。


地下への階段を降りる。

薄暗い廊下。埃っぽい空気。


書庫は予想以上に広かった。

棚には年代別に資料が並んでいる。


十年前のセクションを探す。

1年分の学園新聞を見つけ、ページをめくる。


四月、五月、六月......


十月号で、手が止まった。


『生徒一名、原因不明の失踪』


小さな記事だった。名前は伏せられている。

でも、これだ。志音が言っていた、消えた生徒。


記事を読み進める。

『同級生たちは、該当生徒の記憶が曖昧だと証言』

『教師陣も、詳細を思い出せない異常事態』


そして、最後の一文。

『なお、本件に関する調査は、理事会の判断により中止された』


中止? なぜ?


他の資料も調べる。

すると、奇妙なパターンが見えてきた。


毎年、一人か二人の生徒が失踪している。

そして、その度に同じような記事。記憶の曖昧さ。調査の中止。


これは偶然じゃない。

システマティックに、何かが起きている。


「誰かいるの?」


声がして、振り向く。

藍沢先輩が階段に立っていた。


「司書から聞いたわ。熱心ね」

「すみません、勝手に──」

「いいのよ。真実を知りたい気持ちは分かる」


藍沢先輩は近づいてきた。

手には、古いファイルを持っている。


「これを見せてあげる。でも、他言は無用よ」


ファイルを開く。

中には、写真と書類が入っていた。


写真は、十年前の生徒会。

その中に、見覚えのある顔があった。


「霧島先生?」

「そう。彼も、かつてはこの学園の生徒だった」


若い頃の霧島先生。眼鏡は同じだが、表情が違う。

もっと人間らしい、普通の青年の顔。


「彼は、あの年の生徒会長。そして──」


藍沢先輩が、写真の端を指さす。

そこに、もう一人の生徒が写っていた。


銀髪の少女。

志音だ。


「彼女の名前は分からない。記録が全て消されているから。でも、霧島先生と親しかったらしい」


霧島先生と志音。

十年前、彼らの間に何があったのか。


「先輩は、どうしてこれを?」

「生徒会長の特権よ。歴代の会長だけが見られる資料がある」


藍沢先輩の表情が真剣になる。


「朱璃さん、あなたは特別よ。転校してきて、すぐに夢の中心に入り込んだ」

「中心?」

「白いドア、逆回転する時計、そして......会ってしまったんでしょう? 銀髪の少女に」


どうして分かるのか。


「顔に書いてあるわ。それに、あなたの席。あそこに座った生徒は、必ず彼女と出会う」


運命だったのか。

いや、仕組まれていたのか。


「彼女は、何?」

「分からない。亡霊? 残留思念? それとも......」


藍沢先輩は言葉を濁した。


「とにかく、気をつけて。夢に深入りしすぎると、戻れなくなる」


地下書庫を出て、外の空気を吸う。

もう夕方だった。


帰り道、理子のことが心配になる。

彼女は約束を守ってくれるだろうか。


家に着いて、すぐに理子にメッセージを送る。

『今日は早く寝て。そして、白いドアには近づかないで』


返信はすぐに来た。

『分かってる。でも、あの子の泣き声が頭から離れない』


不安が募る。

今夜、何かが起きる予感がする。


夕食も喉を通らない。

両親は心配そうだったが、適当に誤魔化した。


部屋に戻り、ベッドに入る。

眠りたくない。でも、眠らなければ。


志音に会って、真実を聞かなければ。

理子を守るために。


目を閉じる。

闇が迫ってくる。


今夜の夢は、どんな真実を見せてくれるのだろう。

そして私は、その真実に耐えられるのだろうか。


意識が沈む。

深い闇の底へ。


どこかで、時計の音が聞こえる。

逆回転する時計の音が。


カチ、カチ、カチ。


時間が、巻き戻されていく。


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