夢葬(むそう)のアリス──彼女は、目覚めてはいけなかった
ソコニ
第1話「赤い朝の始まり」
塔が燃えていた。
朱璃は目を開けた。天井の木目が、朝の光を浴びて赤く染まっている。違う。それは夢の残像だった。燃える塔の炎が、まだ網膜に焼き付いている。
時計を見る。六時十七分。目覚ましが鳴るまで、あと十三分。
身体を起こすと、新しい制服が椅子の背にかけてあった。紺のブレザー、グレーのプリーツスカート、そして赤いリボン。私立アナムネーシス学園の制服。今日から、私はあの学園の生徒になる。
なぜ転校することになったのか。両親の説明は曖昧だった。「環境を変えた方がいい」「新しい出会いが必要」──そんな言葉の羅列。でも、本当の理由は別にあるような気がしていた。
制服に袖を通す。鏡に映る自分は、知らない誰かのようだ。
朝食の席で、母が言った。
「学園には寮もあるけれど、最初は通いで様子を見ましょうね」
「うん」
父は新聞から目を離さない。見出しには『記憶障害の若年化進む』とあった。
駅から学園までは、バスで二十分。山道を登っていくと、霧の向こうに巨大な建物が現れる。明治時代の洋館を改装したという校舎は、現代の建築とは明らかに異質だった。
正門をくぐると、奇妙な光景が広がっていた。
生徒たちが、皆、何かを書いている。
立ち止まって見つめる。彼らの手には赤いペンが握られていた。白い紙に、せわしなく文字を走らせている。朝の登校時間だというのに、誰も急ぐ様子がない。それが最も重要な儀式であるかのように。
「転校生の人?」
振り返ると、栗色の髪の上級生が立っていた。
「は、はい。今日から──」
「朱璃さんね。私は二年の柚希。生徒会から案内を頼まれてるの」
柚希と名乗った先輩は、私の手を取った。温かい手だった。
「あの、皆さんは何を書いて──」
「夢報告書よ」
「夢、報告書?」
「そう。この学園では、毎朝、前の晩に見た夢を記録して提出するの。義務なのよ」
意味が分からなかった。夢を報告する? なぜ?
柚希は私の困惑を察したようだった。
「最初は戸惑うと思う。でも、すぐに慣れるわ。ほら、赤いペンを渡すから」
差し出されたペンは、インクの匂いがした。鉄錆のような、血のような。
「でも、私、夢なんて──」
「覚えてないって? 大丈夫。思い出せなければ、適当に書けばいいの。ただし」
柚希の表情が、一瞬だけ曇った。
「嘘は書かない方がいい。なぜか、バレるから」
教室に案内される途中、廊下の時計が目に入った。針は七時を指している。でも、何かがおかしい。秒針が、ゆっくりと逆回転していた。
「時計が──」
「ああ、それ? 壊れてるのよ。でも誰も直そうとしないの。不思議でしょ」
1年B組。私のクラスだった。
すでに半分ほどの生徒が席についていた。皆、夢報告書を書いている。赤いペンが、紙の上を這うように動く。
「朱璃さんの席は、窓際の後ろから二番目よ」
指定された席に座る。机の上には、すでに白い紙が置かれていた。『夢報告書』という文字が、上部に印刷されている。
さて、何を書けばいいのか。
ペンを握る。インクが、指先に冷たい。
そうだ、今朝の夢。塔が燃えていた夢。それを書けばいい。
『塔が燃えていた』
文字が、紙に染み込んでいく。赤いインクは、まるで血のようだ。
『高い塔が、夜空に向かって炎を上げていた。私は下から見上げていた。炎の中に、誰かがいた。でも、顔は見えなかった』
書いているうちに、夢の細部が蘇ってくる。本当に見た夢だったのか、今書きながら作り出している物語なのか、境界が曖昧になっていく。
『塔の周りを、白い鳥が飛んでいた。鳥たちは炎に巻き込まれても、燃えなかった。ただ、羽が少しずつ黒く染まっていった』
ペンが止まる。これ以上は思い出せない。いや、本当に見た夢だったのだろうか。
「はじめまして」
隣の席の女子が話しかけてきた。
「私は理子。よろしくね」
明るい笑顔だった。こんな奇妙な朝の儀式の中でも、彼女は屈託がない。
「よろしく。私は──」
「朱璃さんでしょ? もう皆知ってるよ。転校生は珍しいから」
理子の夢報告書が、ちらりと見えた。そこには『白いドアの夢』と書かれていた。
教室のドアが開く。
グレーのスーツを着た男性教師が入ってきた。眼鏡の奥の目が、一瞬、私を捉える。
「おはようございます。新しく転入生を迎えることになりました。朱璃さん、前へ」
立ち上がる。足が震えているのが分かった。なぜだろう。ただの自己紹介なのに。
黒板の前に立つ。クラスメイトたちの視線が集まる。皆、手には赤いペンを持ったままだ。
「朱璃です。よろしくお願いします」
簡潔に済ませた。これ以上、何を言えばいいのか分からない。
「朱璃さんの前の学校のことや、趣味などは、おいおい皆さんも知ることになるでしょう」
教師が言った。霧島というらしい。担任だと、柚希から聞いていた。
「さて、夢報告書の提出時間です。前から順に集めてください」
生徒たちが立ち上がり、報告書を前に運ぶ。私も列に加わった。
霧島先生の手に、報告書が重なっていく。赤いインクで書かれた、生徒たちの夢。それは奇妙な光景だった。
私の番が来た。
報告書を差し出す瞬間、霧島先生と目が合った。
眼鏡の奥で、何かが光った。
「塔の夢、ですか」
私の報告書を、まだ受け取る前なのに、彼はそう言った。
「どうして──」
「顔に書いてありますよ」
霧島先生は微笑んだ。意味深な、どこか冷たい微笑。
報告書を受け取ると、彼はそれを他の生徒のものと重ねた。赤いインクが、幾重にも層を成している。
席に戻る途中、窓の外を見た。
中庭に、古い時計塔が立っていた。
朝日を浴びて、赤く染まっている。
まるで、燃えているかのように。
最初の授業が始まる。国語だった。
教科書を開きながら、私は考えていた。
この学園は、何かがおかしい。
夢を報告させる。赤いペンで。
そして教師は、私が書く前から内容を知っていた。
理子が小声で言った。
「ねえ、朱璃さんも白いドアの夢、見たことある?」
「白いドア?」
「うん。皆、一度は見るんだって。開かないドアの夢」
彼女の言葉が、胸に引っかかった。
皆が見る夢。
それは、偶然なのだろうか。
授業が進む中、私の意識は別のところにあった。
窓の外の時計塔を見つめながら、今朝の夢を思い出そうとする。
塔が燃えていた。
炎の中に、誰かがいた。
その誰かは──
「朱璃さん」
霧島先生の声で我に返る。
「教科書の四十二ページを読んでください」
慌てて該当ページを開く。そこには詩が載っていた。
『夢は現実の影
現実は夢の残滓
境界に立つ者だけが
真実を知る』
声に出して読む。
教室に、私の声だけが響く。
読み終えると、霧島先生は満足そうに頷いた。
「良い声ですね。夢を語るのに相応しい」
また夢の話。
この学園では、全てが夢に結びついているのか。
昼休み。
食堂への道すがら、掲示板の前を通る。
そこには『優秀夢報告』というコーナーがあった。
選ばれた生徒の夢が、拡大コピーされて貼り出されている。
読んでいくと、奇妙な共通点に気づく。
白いドア。塔。時計。鳥。
同じモチーフが、繰り返し現れている。
「面白いでしょ」
振り返ると、柚希が立っていた。
「これ、毎週更新されるの。選ばれると、ちょっとした有名人よ」
「でも、なんで皆、似たような夢を──」
「さあ? 不思議よね」
柚希の表情は、何かを知っているようで、知らないようでもあった。
食堂で、理子と一緒に昼食を取る。
彼女は相変わらず明るかった。
「朱璃さん、前の学校はどんなところだったの?」
「普通の、公立高校よ」
「じゃあ、夢報告書なんてなかったでしょ? びっくりした?」
「ええ、とても」
でも、本当にびっくりしたのは、それだけではない。
この違和感。この不安。
説明できない何かが、この学園を包んでいる。
午後の授業が終わり、放課後。
部活動の勧誘を断り、一人で校舎を歩く。
迷路のような廊下。同じような扉が並ぶ。
気がつくと、見覚えのない場所にいた。
「迷った?」
声の主を探す。
廊下の奥、窓際に一人の少女が座っていた。
銀色に近い髪。青い瞳。
そして──古い型の制服。
「あなたは──」
「通りすがりよ。道案内が必要?」
少女は立ち上がった。
近づいてくる。一歩、また一歩。
なぜか、後ずさりしたくなる。
でも、足が動かない。
「大丈夫。怖がらないで」
少女の手が、私の頬に触れる。
氷のように冷たい。
「あなた、素敵な夢を見るのね。塔の夢」
「どうして知って──」
「だって、書いてあるもの。ここに」
少女の指が、私の額に触れる。
瞬間、景色が歪んだ。
廊下が回転し、天井と床が入れ替わる。
目眩がする。
膝から崩れ落ちそうになる。
「ああ、ごめんなさい。まだ早かったのね」
少女の声が、遠くから聞こえる。
「でも、いずれ分かるわ。あなたが、なぜここに来たのか」
意識が薄れていく。
最後に見えたのは、少女の悲しそうな微笑みだった。
「私は志音。また会いましょう、朱璃」
気がつくと、保健室のベッドに横たわっていた。
「目が覚めた?」
養護教諭の白崎先生が、心配そうに覗き込んでいた。
「廊下で倒れているところを、他の生徒が見つけたの。大丈夫?」
「はい、多分──」
身体を起こす。頭が少し重い。
「貧血かしら。転校初日で緊張したのね」
「そう、かもしれません」
でも、違う。
あの少女。志音と名乗った少女。
彼女は確かにいた。
「あの、廊下に誰か──」
「誰もいなかったわよ。あなた一人だけ」
白崎先生の言葉に、背筋が寒くなる。
「今日はもう帰りなさい。明日は元気に登校してね」
保健室を出る。
もう夕方だった。生徒たちの姿はまばらだ。
昇降口へ向かう途中、もう一度あの廊下を通る。
少女がいた場所。
そこには、何もなかった。
ただ、窓から差し込む夕日が、床に奇妙な影を作っていた。
人の形をした影。
でも、その影を作るべき人は、どこにもいない。
学園を出て、バス停へ向かう。
振り返ると、時計塔が夕日に照らされていた。
まるで、燃えているように見える。
今朝の夢と、同じように。
バスに乗り込む。
席に座ると、制服のポケットに何か入っているのに気づいた。
小さな紙片。
赤いインクで、一行だけ書かれていた。
『あなたを待っていた』
震える手で、紙片を握りしめる。
これは、夢ではない。
確かに、現実だ。
でも、この学園では、夢と現実の境界が曖昧なのかもしれない。
家に帰ると、母が心配そうに出迎えた。
「遅かったのね。初日はどうだった?」
「うん、大丈夫」
嘘だった。
全然大丈夫じゃない。
夕食の席で、父が聞いた。
「学園は気に入ったか?」
「まだ、よく分からない」
それは本心だった。
部屋に戻り、制服を脱ぐ。
鏡に映る自分を見つめる。
額に、うっすらと赤い跡があった。
志音が触れた場所。
シャワーを浴びても、跡は消えない。
ベッドに入る。
明日も、夢報告書を書かなければならない。
今夜は、どんな夢を見るのだろう。
白いドアの夢? それとも──
目を閉じる。
闇の中で、塔が燃えている。
炎の中に、銀髪の少女が立っている。
彼女は微笑んで、手を差し伸べる。
『あなたを待っていた』
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
明日の朝、私は何を書くのだろう。
赤いペンで。
血のようなインクで。
そして、それは本当に夢なのだろうか。
それとも──
時計の音が聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
でも、その音は、少しずつ遅くなっていく。
まるで、時間そのものが止まりかけているように。
私立アナムネーシス学園。
記憶の学園。
私は、何を思い出すことになるのだろう。
何を、忘れることになるのだろう。
赤い朝が、また来る。
塔が燃える朝が。
そして私は、夢を書き続ける。
真実と嘘の境界で。
現実と幻想の狭間で。
カチ、カチ、カチ。
時計の音が、子守唄のように響く。
逆回転する時計の音が。
おやすみなさい、朱璃。
明日は、もっと深い夢を見るでしょう。
もっと、真実に近い夢を。
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