第8話 亡色
「いるわよ、ルチア。待っていたわ。おやつはさっき片付けたけど、それでもいい?」
その声を聞いた瞬間、シーはこれまで味わったことがない悪寒に襲われた。
全身の毛穴という毛穴が開き、冷たい汗が一気に噴き出す。
同時に忌まわしい記憶が目の前の現実を押し潰していく──
(最初は、ただの奉仕活動だと思った)
騎士団の詰め所で見かけた『身体能力調査のお願い』という張り紙。
その実施日が偶然、休みと重なっていたから気分転換のつもりで足を運んだ。
(それが間違いだった)
そこから先は思い出したくもない。
白衣の連中に身体を測られ、流れるように別室へ。
差し出された得体の知れない薬を信じて口にした瞬間、意識がぼやけ、気づけば冷たい手術台に縛りつけられて──
「シー!」
すぐそばで声が弾ける。
反射的に視線を向ければルチアが心配そうに見上げていた。
「……耐えられそう?」
乱れた呼吸のままシーは小さくうなずく。
ルチアは一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに表情を整えた。
「……わかった。無理しないで」
シーは何も返さず、声のした方へ歩く。
大丈夫だ、今更傷つくことなど何もない。忌々しい声がした方向に近づくほど薬品のにおいが濃くなっていく。やがてその重い足取りが止まった。
「あら?」
と淡い水色の瞳が振り向く。
奥にあった部屋には診察台があり、そのかたわらの椅子に白衣をまとった女が腰かけていた。歳は三十代後半か。いや、それ以上か。
強いくせ毛の栗色の髪を後ろでまとめ、銀縁の眼鏡越しにこちらを見つめる眼差しはまるで古い知人にでも会ったかのようだった。
「変わらないわね、あなたは」
ひと呼吸置き、白衣の女──エリザは静かに告げる。
「でも少し痩せたかしら、三号」
とたん、感覚を失ったはずの背中が疼いた。
ルチアが何か言ったようだが、シーの耳には届かない。視線すらもエリザから外せることができなかった。
「……ふふ、まさか再会するとは思わなかったわ。裏ルートで売られたところまでは追えたけど、その先は不明だったの」
「──」
「あら、だんまり? そんなにまともな契騎と無彩兵になれなかったのはがっかりだったの?」
契騎。無彩兵。
その二つの単語がシーの正気を殴りつける。
(そうだ)
もしも契騎になれていたら。あるいは無彩兵になれていたら。
俺はきっと──
「やめて、先生」
聞き覚えのある、けれど鋭い声。
我に返ればルチアが一歩前に出て、自分たちの間に割って入った。その姿に普段の柔らかな雰囲気はない。
「シーをいじめるなら、帰るよ」
「やだ、ルチアったら。こんなの、挨拶のうちよ?」
「人の傷をえぐる挨拶は感心しない」
エリザは小さく笑う。
「三号……じゃなかった、シー。なりそこないほど興味深い被験体はいないわ。観察対象としてね」
その視線がルチアにも向かった。
小さな肩がわずかに揺れたのを見た瞬間、金属の指が勝手に震える。この女は──ルチアの力まで測ろうとしているのか。
「……ヤブ医者が。誰のせいで失敗作になったと思ってる」
自然と喉奥から唸るように皮肉交じりの言葉が漏れる。
「そうやって何人、解体してきた? ええ?」
「さあ。数えたことはないわ。数えてたら、夜、眠れないもの」
無造作に答えながら、エリザは立ち上がる。
そして壁際に置かれた作業机の引き出しを開けると、なかから見覚えのある二つの機械を取り出した。たしかあれは──
「簡易スキャナーと光診断器、だったか?」
「知ってるの?」
「麻酔でいつもぼんやりとしていたが、身体を切り刻む前にあんたらがそれを使って色々と調べている光景を何度も見ていたらそりゃ覚えるさ」
荒れそうになる口調を抑えつつ、シーは答える。
「……触るなよ」
「そんなこと言わずに。診察くらいはさせてよ。今のあなたは見ていられないから」
「ほざけ。てめえが壊したんだろうが」
シーの声に殺気が混じる──と、その時。
「……ごめんなさい」
部屋に一瞬だけ静寂が落ちる。
「な、に……?」
思わず口にしたシーにエリザは淡々と、だが確かに言った。
「たしかに私はあのとき、あなたを素材としてしか見ていなかった。
正確に言うなら──あなたの可能性を、ただのデータとして追いかけていたわ」
「……」
「【大災厄】も【七日間戦争】も始まる前だったけど、それだけ契騎という存在は素晴らしかった。あの美しくて強い存在を復活させるためなら人の命なんて道端の石ころ以下だったと本気で信じていたわ」
その目はどこまでも冷静で、声もまた平坦。
だからこそシーは信じられなかった──この女の言葉からにじむ“後悔”という響きに。
「無彩兵もそう。感情と記憶を潰して命令だけを聞く兵士の開発も魅力的だった」
「……だから旧王国から現政権に乗り換えた、と」
「ええ、でもね。こうして何もかもが終わって、派閥の選択にも失敗して。左遷されてみて気づいたの──虚しいなって」
「虚しい……だと?」
そう、とエリザは言った。
「私は研究に全てを捧げたつもりだった。だけど眠るたびにあなたたち被検体の顔が浮かんでは消えていったの。最初は興味だと思っていたけど……きっと後悔しているんでしょうね」
エリザは手に取った器具を机の上に置き、まるで壊れ物のように撫でる。
それからシーとルチアに向き合うと、
「マダムからルチアの近況を聞いた時にあなたのことを知って驚いたわ。
本当に生きているとは思わなかったもの……でもだからこそ、どうかもう一度だけ、あなたに触れることを許してほしい。一介の医者としてあなたを治したいの」
と言って頭を下げた。
張り詰めていた室内の空気が少しだけ揺らぐが、シーの眼差しは厳しい。
「……今更過ぎるだろ。傲慢すぎる」
低く、絞り出すように言い放つ声はどこか震えていた。
「そもそも何を直すっていうんだよ。神経か? 両腕か? それとも──心か?」
「残っているものを守る。それだけよ」
その真っ直ぐさに腹の底から殴りたい衝動が込み上げてくる。
だがたとえエリザを殴ったところで意味のないことだとよく理解していた。大丈夫だ、感情を押し殺すのには慣れている。
けれど。
「……やめだ。診療は、いらない」
心臓の奥で叫ぶ、この「許さない」という声だけは消したくなかった。
「このままでいい。俺にはお似合いだ」
シーは目を伏せ、言い捨てる。
一瞬だけエリザの眉がひそめたが、短く首肯した。
「……わかったわ。無理にとは言わない」
束の間、気まずい沈黙がただよったものの、エリザが話題を切り替えるように続ける。
「ならさっそくだけど、仕事をしてしましょう──来て、ジゼル・フィーネはこっちよ」
そうして案内された部屋は薄暗く、どこか湿った匂いがこもっていた。そんな部屋のベッドで横たわる女がひとり──
「彼女がジゼルよ」
へぇ、とシーは胸中で舌を巻く。なるほど、看板女優なだけはある。
青みがかかった黒髪が白いシーツの上でうねり、痩せた白い頬は病的だ。空虚な瞳は何も映っておらず、口元には薄笑いを浮かべている。
けれどジゼルには目を惹きつけるような“華”があった。
それこそ自分の体内に移植されている契騎の心核、その本来の主のように──
(そういや昔、似たような奴を見たな……あれは騎士団にいた頃だったか?)
と、そこで異変に気付く。
ルチアの顔が強張っているように見えた。明らかに顔色が悪くなっており、瞬きすらぎこちない。
「……おい、どうした?」
返事はない。
ただ、ジゼルだけを見ている──その瞳は忙しなく泳いでいた。まるで映るはずの色を探すように。
(続く)
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