第20話 恐怖の影

 神域の北東にあるその谷に、恐れの神・畏見は潜み暮らしていると言う。

 影見の谷へと続く道は、その名の通り、薄暗い影に覆われていた。

 空気は重く、湿気を帯び、樹々はまるで苦痛に歪むかのように枝を伸ばしている。ゴツゴツした岩肌が剥き出しのその場所を、采女は注意深く歩いていた。

 彼女を挟んで、先頭には猛雄、後尾には涙月が立ち、ゆっくりと歩みを進めている。

 背中が鳥肌がたってゾクゾクする。谷に足を踏み入れた時から、何となくうすら寒いものが肩から背中にかけて纏わりついているような気がして、采女は思わず肩を払った。

 がんどうをもって前方を照らす猛雄の背中が見える。采女は、額に浮いた冷や汗を拭って後に続いた。

 ふと、涙月が顔を上げて立ち止まった。


「采女」


 采女が、岩の上に立ってこちらを見下ろしている。

 彼女の目からは滂沱の涙が溢れ、その表情は悲しみの色に塗れていた。


『あなたの悲しみがうつってしまったの』


 采女が冷たく言い放つ。彼女の表情が歪み、とめどない涙が胸や足元を濡らして、水たまりを作った。


「……!」



 涙月が息を飲んで采女を抱きしめようと駆け出した。岩の上に登り、彼女に触れる。

 ばしゃんと音がして、涙月の触れた所から采女の体が水風船のように弾け、中の水が飛び散った。


「采女……!」


 涙月は岩肌に染みこんで行く采女だったものに触れて、はらはらと涙を流しはじめた。





 〇






 猛雄は、猛雄の足が、ぐしゃりと何かを踏み抜いた。


 不快な音に、彼の心臓が跳ねる。思わず足元に視線を落とすと、そこには、信じられない光景が広がっていた。


 無残にもバラバラに踏み砕かれた、采女の体が、そこに横たわっていた。


 白い生成りの着物は土と血に塗れ、その腕は陶器が割れるかのごとく粉々になっていた。髪は散乱し、その瞳は光を失い、焦点が定まらない。彼女の口元が、かろうじて言葉を紡ごうと震える。


「た……けお……」


 か細い囁きが、虚空に消え入る。次の瞬間、彼女の瞳から最後の光が消え、体はぴくりとも動かなくなった。


 猛雄の頭の中で、何かが弾け飛んだ。


「女っ……!」


 血の気が引いていくのが分かる。彼女を壊してしまった。その手で。激情が彼の全身を駆け巡り、再び怒りの炎が燃え盛る。世界を破壊してしまいたいほどの、どうしようもない絶望と自責の念が、彼の魂を蝕んでいく。





 〇





 采女は薄暗闇の中を歩き続けていた。いつの間にか前方に、猛雄と涙月が立っている。

 清々しい表情を浮かべた猛雄と涙月は、喜びを分かち合うように、互いに向き合っている。


『これで、俺たちは完全に力を取り戻した』

『すべてがもとの通りだ』


 彼らの言葉は、采女の耳に、はっきりと届いて響いた。しかし、彼らの視線は、決して采女に向くことはない。まるで、そこに彼女が存在しないかのようだ。


「猛雄……涙月……?」

 采女は、震える声で呼びかけた。

 二柱は、采女の声に気づかない。彼女の存在は、彼らの認識から完全に抜け落ちているようだった。


『これで、もう采女は必要ない』


 ふと、猛雄の口から、冷たい言葉が紡がれた。彼の表情は、先ほどまでの感謝とは裏腹に、氷のように無関心だ。


『そうでだね。僕たちだけでも、十分だった」


 涙月もまた、采女を視界に入れることなく、静かに同意した。


「誰からも忘れ去られる」。毛羽毛現の長老が告げた契約の代償が、容赦なく現実となって采女の心を締め付けた。神々を救うために、自らを忘れ去られることを選んだはずなのに、それが、こんなにも耐えがたい現実として突きつけられるとは。


 彼女は、途方もない恐怖に押しつぶされそうになった。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。

 必要とされない自分。誰も彼女の存在を認識しない世界。自分がどれほど努力し、献身しても、結局は独り、忘れ去られていく……その虚無感と孤独が、采女の体を鉛のように重くした。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。


(でも……)


 冷え切った心の奥底で、かすかな、しかし確かな温かい光が灯った。


 誰からも必要とされなくても。誰からも忘れ去られても。

 それでも。


「それでも、私は、髷が好きだ」


 采女の心の中で、その言葉が、熱い炎となって燃え上がった。

 自分が誰からも必要とされなくとも、この手で、髷を結いたい。

 髷が好きだ。

 その根源的な喜びだけは、誰にも奪えない。この情熱だけは、誰に認められなくとも、そこに確かに存在する。


 その思いが、采女の崩れかけた体を、内側から押し上げた。


「これは、幻覚だ!」


 彼女はそう看破すると、震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。視界の闇はそのままだ。猛雄と涙月の幻影は、まだ冷たく彼女を無視している。


 震える声で、しかしはっきりと、采女は彼らの名を呼んだ。


「猛雄!涙月!」


 はっとして、猛雄と涙月が顔を上げる。幻覚が、影になって溶けていく。

 猛雄が、指先から炎をほとばしらせ、影を燃やす。涙月はその手から水球を出現させ、影を押し流した。


「女!」


 猛雄が采女の側へ駆け寄る。涙月も続いて合流した。


「危なかった……僕たち、影の作る幻覚に飲み込まれかけていた」

「ああ……お前も見たのか、幻覚を」


 二柱は、顔を見合わせると、殆ど同時に采女に手を伸ばした。


「わはは、生きてる生きてる」

「よかった……」


 揉みくちゃに抱きしめられて采女がくぐもった悲鳴をあげる。


「ちょっ、止めて止めて!潰れちゃうよ!」


 彼らの瞳は、采女をしっかりと捉えている。忘れ去られてなどいない。彼らは、采女の存在を、確かにここに感じている。采女は、恐怖の余韻と安堵から、全身で大きく息を吸い込んで深呼吸した。

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