第一章 さまよえる異邦人 ⑨

 リミは稜弥に視線を定めた。その顔にはわずかだが憤りがあった。

「電線が立ち消えている位置では、その電線が、黒い靄のようなものに飲み込まれています。つまり、その靄が出入り口なんです。しかもあの電線は、究極の混沌を介して現世と繋がっています。仮になんらかの手段であの電線をたどってこちら側の空間から出ることができたとしても、現世の出入り口に向かって究極の混沌を通過しなければなりません。究極の混沌は宇宙空間と同じように無重力で真空……絶対零度の世界です。そんな空間では、人は宇宙服を着用していなければ死んでしまいます」

「でも、ぼくは自分で門を呼び出せるし、真空でもへっちゃらだから、自由に現世に行けるよ」

 泰輝のその言葉に稜弥は思わず「門?」と反応してしまう。

「たいくん、話がややこしくなるから、口を挟まないでね」

 リミは泰輝を睨んだ。そして、稜弥に視線を戻す。

「たいくんは特別な存在です。彼の話を人間に当てはめないでくださいね」

「あ……ああ」

 答えたものの、話はまったく呑み込めていなかった。とにかく、この世界から出られないことは事実である、と受け入れるしかない。

 西の彼方――暗い大地の上で、何かが動いていた。ふらふらと歩く人――のように窺えた。

 その人影が不意に足を止め、こちらに顔を向けた。しかし、距離が隔たっていることに加えてこの暗さがあり、その容貌は見定められない。

 こちらの存在に気づいたのか、その人影はこちらへと不意に走り出した。

「いけない」

 リミが焦燥の声を上げた。

「なんなんだい、あれは」

 稜弥は尋ねるが、リミはそれには答えず、泰輝に顔を向けた。

「今から走って逃げても、あいつに追いつかれちゃう。たいくん、あいつを追い払って」

「ええー」泰輝は渋面を浮かべた。「服を脱いだり着たりするの、面倒くさいよ」

「そのままでなんとかできるでしょっ」

「わかったよ」

 答えた泰輝は、しぶしぶとした様子で、稜弥の横から西のほうへと数歩、歩み出た。

 まったく理解できず、稜弥は黙して事態の流れを見守る。

「やるよ」と泰輝が言うや否や、彼の両耳の先端が上に伸び始めた。

 声こそ出さなかったが、稜弥は口を半開きにし、目を見開いた。

 上へと伸びる両耳の先端が、大きな弧を描いて西へと進んだ。そして、五メートルほど水平に延びたところで、その伸長は止まった。

 泰輝の両耳の先端が光った。

 竹を割ったようなすさまじい音が響く。

 刹那、稜弥は尻餅を突いてしまった。

 人影の近くの地面が弾けた。

「外れちゃった」

 泰輝が言った。

「わざとでしょっ。そもそも、当てなくていいんだし」

 リミが声をとがらせた。

 遠くの人影はこちらに背中を向けたようだ。西のほうへと走って行く。

 泰輝が振り向いた。左右の耳は元の状態に戻っていた。

「ねえ、リミちゃん」泰輝はリミを見た。「ぼくの電撃を使わなくたって、ぼくの姿に気づいたら、あいつは勝手に逃げたはずだよ」

「あいつがたいくんに気づくのは、かなり近づいてからじゃない。わたし、あいつの姿を見るのがとっても嫌なの」

 二人の会話を聞いただけで気が遠くなりかけたが、稜弥はどうにか立ち上がった。

「泰輝くんは何者なんだ? それから、遠くにいたあの何者かは?」

 答えをもらったところで理解できる自信はないが、訊かずにはいられなかった。

「全部を説明すると長くなるのでそれはやめておきますが、一つだけ言っておくと、この一帯には変なものがほかにもたくさんいる……ということです」

「変なものがほかにもたくさんいるんだったら、そいつらによって電柱や電線に何をされるかわからないじゃないか」

「大丈夫です。彼らは電柱や電線には手を出しません」

「でも、人を襲うことはあるんだろう?」

 リミの言葉と場の雰囲気とを鑑みるに、そうであろうという結論しか浮かばない。

「それはそうですが……」リミの表情に焦燥があった。「今逃げたのが再び来ないとは限らないし、ほかのものどもが来るかもしれません。とにかく街へ戻りましょう」

 リミに促されて――否、脅されて、稜弥は「そうしよう」と答えた。

 質問に答えてもらえなかったが、実際のところ、安堵していた。泰輝が何者なのかは、今は聞かないほうがよさそうだ。

 リミと泰輝が阿座斗町に向かって歩き出し、プヨミがその二人に続いた。

 稜弥は最後尾につく。

 早足程度の速度だった。泰輝よりもわずかに前に出ているリミが、全体を牽引しているらしい。

 この速度は稜弥に過剰な不安をもたらしていた。背後を確認するが、ついてくるものはなにもない。

 何げにプヨミの足元を見れば、人の部位とは異なるものが垣間見えた。マントの裾からはみ出たそれはもう見えず、稜弥は気のせいだと思うことにした。

 突然、近くで笛の音がした。音階を外した狂ったメロディーだ。

 思わず足を止め、稜弥は周囲を見渡した。

 稜弥のみならず、全体が移動を止めた。

 リミと泰輝が振り向いた。二人はプヨミを見下ろしている。

「プヨミちゃん、笛を吹くの、やめなさい」

 リミが叱りつけた。

 笛の音がやむ。すなわちプヨミが吹いていたのだろうが、その笛とやらがどんな形をしているのかも、マントに隠されているため目にすることはできない。

「でもさあ」泰輝がリミを横目で見ながら言った。「プヨミちゃんは、街の中では笛を吹いてはいけない、って言われているんだよ。いつも街の外……こういうところで吹いている。だから、いいじゃ――」

「だめ」リミは泰輝の言葉を遮った。「とにかく、今はだめ。状況を考えてね」

「うん、考えるよ。でもプヨミちゃんは、ぼくより頭が悪いから考えられないと思う」

 そんなことを平然と言ってのける泰輝を見て、稜弥はさらなる不安を募らせた。

 ふと、忘れかけていた寒さを稜弥は感じた。しかし、ここは隠世なのだ。

「今の阿座斗町は現世と同じ冬のようだけど、季節ってあるのか? それとも、ずっと冬のまま?」

 稜弥は尋ねた。無論、リミに尋ねたつもりだった。

「ここも現世と同じように」リミが言った。「太陽が東から昇ります。そして……昼間は暖かいし、夜は涼しいし、夏は暑いし、冬は寒いし、晴れたり、雨が降ったりします。天体の位置や気象は、現世の東京……品川の辺りと同調しています。でもそれは……特に天候は、現世の摂理とは異なる法則によって生じます」

「そうか……わかった」

 そこまではわかった、という意味である。現世の摂理とは異なる法則――とやらについては、今は聞きたくない。

 稜弥の気持ちを察したのか、リミはそれ以上の説明をしなかった。


 東へと向かって進むごとに空は次第に明るさを取り戻し、阿座斗町の街並みもはっきりと見えるようになってきた。建物の大きさから察するに、ものの数分で到達できる距離だろう。だが、街の両端がどの辺りなのか、今一つつかめない。

「阿座斗町の街って、どれくらいの規模なのか……外側からでもわかりにくいな」

 答えを求めたわけではなく、独り言だった。

「街はほぼ正方形なんですが、その一辺の長さが三キロくらい……ですね」

 リミが答えた。彼女は進行方向に顔を向けたままだった。

 当分はあの不可解な街で暮らすのだろうか。ややもすると、永住することになるかもしれない。――そんな諦念を胸に、稜弥は急ぎ足で三人のあとに続いた。

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