第一章 さまよえる異邦人 ⑧
西に傾きかけた太陽が、左前方のやや上にあった。まぶしさから目を逸らすついでに歩きつつ振り向けば、いつの間にか、泰輝がリミの左に並んで歩いていた。足音が一人ぶん増えていることにも、今になって気づく。
「あの太陽は、現世で見える太陽と同じなのか?」
泰輝が現れたことにはふれず、稜弥は尋ねた。
「同じ太陽ですよ」リミが答えた。「でも、仮にあの太陽から地球上の街が見えるとしても、この街を見ることはできません。この阿座斗町の代わりに、東品川公園の辺りが見えるはずです。阿座斗町から太陽が見えても、太陽から阿座斗町を見ることはできない、ということなんです」
理解できたようなできないような、そんな感慨があった。
三本目の太い道を渡った。そこから先には、縦にも横にも、もう道はない。
稜弥は立ち止まった。
「どういうことだ……」とつぶやきつつ、目の前の大地に目をはせた。
剥き出しの土は乾いており、ところどころに背の低い草が生えていた。さらに見渡せば、北と南、双方の彼方に杉林らしき陰影が確認できる。
「東京ではないことが、わかったと思います」
稜弥に並んで足を止めたリミが、そう言った。
そのリミの隣では、泰輝が退屈そうに前方の景色を見つめていた。
「ばかな。そんなはずはない」
訝しみつつさらに確認すると、右方向、やや離れた位置に電柱が立っていた。配電線や同軸ケーブル――なのだろう何本かの電線の類いが、その電柱を介して東西に架けられている。
左側に目をやれば、かなり離れた位置にやはり電柱が立っており、何本かの電線の類いが東西に伸びていた。
「やっぱり、ほかの街と続いているんだ。あれらの線をたどっていけば、阿座斗町から出られるはずだ」
稜弥は歩き出した。
リミと泰輝は無言だが、二人ぶんの足跡がついてくるのを、稜弥は耳にした。
自分の人生に希望など何も残っていないが、阿座斗町の街並みから離れられただけでも、人心地がついた気分だった。
稜弥は無言のまま、宙に伸びる左右の電線類と並行した。電線は細いがゆえに見失いがちだが、数十メートルおきに立つ電柱が格好の指標となった。
地面の起伏は少なく、ほぼ平坦だった。山や丘がなければ、先ほどは見えていた杉林も今はなく、視界は彼方まで開けていた。おかげで、この界隈を取り囲むビル街が、俄然、現実味を帯びる。
「ついてきちゃだめじゃない」リミの声がした。「すぐに戻りなさい」
背後の足音が止まっている。
無視を続けようと思うものの、気になってしまう。稜弥は立ち止まり、振り向いた。
リミと泰輝の二人以外に、背丈が一メートル前後の子供らしき姿が一つあった。子供らしき姿――ではあるが、フードつきの白いマントで全身を覆っているのだ。顔の部分には目出し帽のごとく開口部があるが、大きめのサングラスをかけているため、顔の様子は窺えない。おまけに、裾が地面を擦るほどその身には大きすぎるマントを前合わせにしているのだから、首から下の状態もわからない。
「たいくん」リミは泰輝に目を向けた。「家を出るとき、プヨミちゃんにきちんと言っておいたの?」
「何を?」と泰輝が首を傾げると、リミはため息を落とした。
「留守番をするように、だよ。プヨミちゃんを一人で出歩かせてはいけない……って、町会長さんにきつく言われているのに」
「でも今は一人じゃないよ。ぼくたちとい一緒にいる」
「ここに来るまでは一人だったわけでしょう。たいくんのあとを追って一人で歩いてきたということよ」
「歩いて来たんじゃなくて飛んできたのかもしれないよ」
「そういう問題じゃないよ」
リミはあきれたように返すが、稜弥はあきれるどころか不安が倍増してしまう。
話に介入せず、稜弥は三人に背中を向けた。
どれほど歩いただろうか。
稜弥は腕時計で午後二時一分であるのを知った。
前方のビル街のシルエットが、なぜかゆがんでいるように見えた。さらによく見れば、空の青い箇所が灰色を帯びている。いくつかの小さな雲は、どす黒くにじんでいた。
後方の足音は執拗に続いていた。
歩きながら振り向くと、リミと泰輝のあとに、プヨミなる小柄な姿があった。小さいのだから歩幅も小さいらしく、歩調が早い。もっとも、その足は大きな白いマントに隠され、まったく確認できなかった。
それよりも、心を騒がす情景が目に映ってしまう。
三人の背後に見える阿座斗町の街並みまでもが、ゆがんで見えるのだ。
稜弥は進行方向に向き直った。
――蜃気楼に違いない。
そう自分に言い聞かせ、足を進めた。
照度が下がったような気がした。
腕時計を見れば午後二時十分だった。日没にはまだ早い。
稜弥は視線を上げた。
空はほぼ濃灰色だった。太陽の位置は高いものの、その形はゆがみ、ゆがみがはっきりとわかるくらいに輝きは失われている。
視線を下ろせば、遠くのビル街はさらに形が崩れ、生き物のごとくうごめいているのだった。
それでも、電線やケーブルが伸びているのだから諦めるつもりはなかった。
歩きながら右方向を見て、線の類いが宙に伸びているのを確認する。だが、何かがおかしかった。
稜弥は立ち止まり、目を凝らした。
電柱が一本も立っていない。電線の類いはただ空中に浮かび、ビル街だったはずのうごめく何かのほうへと、たるみもせずに一直線に伸びている。左方向も確認するが、やはり電柱がなく、それでも電線の類いは空中に伸びているのだった。
稜弥はさらに見渡した。進行方向に対して右も左も、殺風景な荒野が広がっていた。
振り向くと、五メートルほどの距離を置いて三人が立ち止まっていた。その背後では、阿座斗町の街並みが黒くにじんでおり、そちらの上空も濃灰色だった。
「ビルは……都会は、どうなったんだ?」
三人に向かって、稜弥は質問を投げた。
「どうにもなっていません」リミが答えた。「ビル街の景色は、阿座斗町の街にいる限りは見えます。でも、ただ見えるだけなんです。阿座斗町の存在する空間を実際に覆っているのは、究極の混沌と呼ばれる異空間です。その究極の混沌に現世の景色が映っているだけなんです。ここの空に見える太陽と同じですよ。阿座斗町でも天気のいい夜には星が見えますが、その星々だって、同じことです。つまり、阿座斗町を宇宙から見ることはできない……というか、たとえ地球の大気圏内であっても、現世から隠世を見ることはできないんです。こちらから見えても向こうからは見えない……そして、見えているそこへ行こうとしても……近づこうとしても、究極の混沌へと近づくだけなので、このように、究極の混沌の本質が見えてしまうんです」
「そんなことって……」
認めたくない稜弥は、一つの事実を思い出し、それを指さす。
「あれは……あの電線やケーブルは、現世と繋がっている。あれをたどっていけば、現世に行けるはずだ」
「よく見てください」リミも電線の類いに目を向けた。「電線やケーブルは、外側の空間に向かって少しずつ高度を上げているんです」
そう言われて電線の類いを目で追えば、リミの言葉が事実であるのが知れた。
「あの電線はかなり高い位置で、この空間から消えています」リミは続けた。「確かにその部分に空間の出入り口があるんですが、あくまでもその部分だけです。その真下へ行っても、出入り口はありません」
それが事実なのだろう。稜弥はリミから目を逸らし、唇を噛み締めた。
「宮川さんが一人で阿座斗町に来た、ということは、それほど、ご自身は現世が嫌になった、ということです。それなのに、現世に戻りたいだなんて」
リミはそう言うが、稜弥は自分の気持ちがまだわからないのだ。しかし、現世に戻ってもろくなことがないのは、目に見えている。
「泰輝くんは飛べる、と聞いたが、泰輝くんならその高い位置から出入りできるのか?」
ここまで食い下がるのは悪あがきも同然だ。稜弥はそれを承知していた。
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