第32話:崩壊
コンビニ前の電柱に手をついて体を支えながら、俺は深呼吸をした。
昨夜も結局、午前4時まで作業を続けていた。
ここ一週間で取った睡眠時間を計算してみると、一日平均3時間程度だったかもしれない。
でも、まだまだやることがある。
学園祭まで残り一ヶ月。
今のペースでやっていけば、きっと完璧なアプリができあがる。
俺は電柱から手を離し、再びコンビニに向かって歩き始めた。
その時、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「和人くん?」
振り返ると、天野が心配そうな表情で俺を見つめていた。
手には小さなタッパーを持っている。
おそらく手作りのお弁当だろう。
「あ、天野...」
俺は振り返った瞬間、またもや立ちくらみを感じた。
天野の表情が一瞬で変わる。
「ちょっとエナジードリンクと、何か甘いものも買おうと思って」
「また?昨日も買ってたよね」
天野の言葉に、俺は少し驚いた。
見られていたのか。
「別に...」
「私も最近、甘いものばっかり欲しくて」
天野が少し微笑む。
でも、その笑顔のどこか奥に影があった。
「疲れてる時って、体が甘いものを求めるんだって」
俺は天野の言葉の意味を理解しかねていた。
「天野、何が言いたいんだ?」
「...何でもない」
天野が俺に近づいてくる。
その瞬間、甘いシャンプーの香りが鼻先をかすめた。
「ねえ、和人くん。昨日の夜の流星群...見た?」
「作業してて、気づかなかった」
「そっか...十年に一度だったのに」
俺はますます混乱した。
流星群?そんなのがあったのか。
でも、天野の瞳を見つめていると、そこに言葉にできない何かが宿っているのを感じた。
「天野...」
俺が何か言おうとした時、足がもつれる。
「和人くん!」
天野の声が遠くから聞こえたような気がした。
次の瞬間、俺の意識は途切れていた。
◇
真っ白い天井の蛍光灯がまぶしくて、俺は目を細めた。
隣には天野と三上が心配そうに俺を見下ろしている。
「和人くん、気がついた?」
天野の声は震えていた。
俺は体を起こそうとしたが、頭がふらつく。
「動かない方がいいです」
三上が小さな声で言った。
その瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいる。
「なんで、俺...?」
「コンビニの前で急に...」
天野が俺の手を握りしめる。
その手がひどく冷たいことに気づいた。
「私たち、本当にびっくりして...」
三上の声が途中で詰まる。
俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめん、心配かけて」
「謝らないで」
天野が強い口調で言った。
その時、保健室のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、松本先生だった。
普段のゆるい表情とは打って変わって、眉間にしわを寄せている。
「黒瀬くん、気がついたか?」
「先生...」
「天野さんから連絡もらって、すぐ飛んできたんや」
松本先生が俺たちの近くに椅子を引いて座る。
いつもの関西弁だが、トーンが普段と全く違う。
「黒瀬くん、最近どのくらい寝とる?」
「3時間くらい...」
「毎日?」
「ここ一週間は」
松本先生の表情が更に険しくなる。
天野が握っていたタッパーを膝の上でぎゅっと抱きしめる。
「食事は?」
「コンビニ弁当とか...」
松本先生の表情がさらに厳しくなる。
「黒瀬くん、これは私の責任や」
松本先生が頭を下げる。
「安易にアプリ開発の案件を持ってきてしもた」
俺は驚いた。
松本先生が謝る必要なんてないのに。
「先生、そんなことないです」
「君らのこと、ちゃんと見てあげられんかった」
「でも俺が勝手に...」
「今すぐご両親に連絡して、謝りに行きます」
松本先生の声に迷いはなかった。
「君は十分頑張った。でも、もうこれ以上はあかん」
その言葉に、天野が突然立ち上がった。
「私のせいなんです」
天野の声が震えている。
「和人くんに変なこと言って」
「天野?」
「『自然な和人くん』って...私、何様のつもりだったんだろう」
天野のタッパーが床に落ちる。
小さなプラスチックの音が保健室に響いた。
「完璧なんて、存在しない」
天野が自分に言い聞かせるように呟く。
「それなのに私は...」
三上も立ち上がる。
「違います、光先輩」
三上の声は普段より大きかった。
「私です。私が一番だめだったんです」
「柚葉ちゃん...」
「先輩を支えてるふりして、満足してただけで」
三上の手がぎゅっと握られる。
「本当は何もできてなくて...先輩の無茶を止めようともしなかった」
三上の瞳に、悔しさと自分への怒りが宿る。
「私、最低です」
保健室に静寂が流れた。
俺は二人の言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
みんな、自分を責めている。
でも、一番悪いのは俺なのに。
「みんな、やめてくれ」
俺がベッドから起き上がろうとする。
「俺が勝手に焦って、勝手に追い詰められただけだ」
「和人くん、動いちゃだめ」
天野が俺を制止する。
「でも、みんなが自分を責める必要なんて...」
天野が床に落ちたタッパーを拾い上げる。
「ねえ、和人くん。誰かにお弁当作ってあげたことある?」
唐突な質問に困惑しながらも答える。
「え、いやないかな...」
「お弁当作る時ってね、相手の顔を思い浮かべるんだよ」
天野の言葉に、俺と三上は黙って耳を傾けた。
「今日は何を食べてもらおう、どんな顔するかなって」
天野のタッパーを握る手が震えている。
「でも和人くんは、忙しいからって受け取ってくれない」
三上が小さく息を呑む。
「私も、おにぎり作って持ってきたのに...」
「『もう食べた』って」
天野と三上の視線が交差する。
「私たち、全然お互いのことが見えてなかったんだね」
そう言って、俺たち3人は黙り込んでしまう。
松本先生が静かに立ち上がった。
「君ら、とりあえず今日は帰り」
「先生...」
「黒瀬くんは一週間の休養。問題解決部の活動も一時停止や」
松本先生の声に迷いはなかった。
「アプリのことは私から生徒会に説明しとく」
「でも学園祭が...」
「学園祭なんかよりも大事なもんがあるやろ」
そうして、俺たちは各自の家に帰った。
◇
夜の9時、俺は自分の部屋でベッドに横になっていた。
両親に事情を説明した後、松本先生からも電話があって、明日謝罪に来ると言ってくれた。
母親は何も言わずに俺を抱きしめ、父親は「無理するな」と頭を撫でてくれた。
でも、眠れなかった。
昼間、保健室で3時間近く寝てしまったせいか、目がさえている。
天井を見つめながら、今日一日のことを反芻していた。
スマホに通知が入った。
天野からのメッセージだった。
『お疲れさま。もう寝た?』
『まだ。昼間寝すぎて眠れない』
正直に返信すると、すぐに返事が来た。
『私も。心配で全然眠くない』
その直後、三上からも。
『私もです。黒瀬先輩は大丈夫ですか?』
俺は少し驚いた。
みんな眠れないでいるのか。
『みんな同じか』
『そうみたい』
天野から返信が来る。
『ゲームでもするか?』
俺が提案する。
『でも、先輩は体調が...』
三上が心配してくれる。
『30分だけ』
俺は答えた。
『それくらいなら...』
久しぶりにゲームを起動した。
ログインすると、『Hikari』と『Yuzuha』がすでに待っていてくれた。
「お疲れさま」
天野の声がヘッドセットから聞こえてくる。
いつもの明るい声だが、どこか疲れが混じっていた。
「黒瀬先輩、本当に大丈夫ですか?」
三上の心配そうな声。
「大丈夫」
俺は短く答えたが、すぐに天野が突っ込んできた。
「また『大丈夫』って言った」
「え?」
「和人くん、今日何回『大丈夫』って言った?」
天野の声には、いつもの優しさとは違う、少し厳しいトーンが混じっていた。
「...数えてない」
「27回」
俺は絶句した。
そんなに言っていたのか。というか数えていたのか。ちょっと怖い。
「先輩、私たちに本当のこと言ってくれませんよね」
三上も続ける。
「いつも『大丈夫』『心配ない』『問題ない』ばっかり」
「でも...」
「でもじゃない」
天野が遮る。
「私たち、もう子供じゃないんだよ」
ゲーム画面の中で、俺たちのキャラクターは街の中央広場に立っている。
でも、誰も動こうとしない。
「和人くん、正直に言って」
天野が静かに聞く。
「今、つらい?」
俺は答えに迷った。
いつもなら「大丈夫」と答えているところだが。
「...つらい」
小さく呟いた。
「すごく、つらい」
「ですよね」
三上が安堵したような声を出す。
「それが聞きたかったんです」
「え?」
「先輩がつらいって言ってくれないと、私たち何もできないんです」
三上の言葉に、俺は胸を突かれた。
「だって、先輩が『大丈夫』って言ったら、それ以上踏み込めないじゃないですか」
「そうそう」
天野も頷く。
「和人くんが壁作ってるから、私たちも遠慮しちゃう」
俺は自分がやっていたことを、初めて客観視した。
俺は二人を守ろうとして、結果的に二人を遠ざけていたのかもしれない。
「ごめん」
「謝らないで」
天野がまた言う。
「謝るんじゃなくて、今度から本当のこと言って」
「はい」
俺は素直に答えた。
それから、俺たちは久しぶりに一緒にクエストを回った。
なんだか、こうしてみんなでゆっくり遊ぶのも久しぶりで懐かしい気持ちになる。
天野が俺のプレイが雑になると「和人くん、集中して」と注意してくれる。
三上が俺の体力を気にして「先輩、無理しないでください」と声をかけてくれる。
そして俺も、素直に「ありがとう」と言えた。
「そうそう」
天野が突然言った。
「明日、ご飯作ってお見舞いに行くね」
「でも、活動停止中だし...」
「友達として」
天野がきっぱりと言う。
「部活じゃなくて、友達として心配だから」
「私も一緒にいていいですか?」
三上が聞く。
「当たり前でしょ」
天野が笑う。
「じゃあ、そろそろ」
俺があくびを隠せなくなってきた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ログアウトした後、俺は一度ベッドに戻った。
でも、やはり眠れない。
のどが渇いたので、そっとベッドから出てキッチンに向かった。
両親はもう寝ているようで、家の中は静まり返っている。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いでいると、外で雨音が聞こえ始めた。
いつの間にか降り始めたらしい。
キッチンの窓から外を覗いてみると、街灯に照らされた雨粒がキラキラと光っている。
こんな時間に雨か。
明日の待ち合わせは大丈夫だろうか。
そんなことを考えながら麦茶を飲んでいると、テーブルに置いたスマホが光った。
午後10時を過ぎている。
こんな時間に誰だろう。
俺は通話ボタンを押した。
「はい」
「よう、黒瀬。起きてたか」
聞こえてきたのは、東城の声だった。
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