第31話:どこからやり直せばいい
雨が降り始めた木曜日の午後、私は一人で屋上にいた。
ここ数日続いている曇り空が、ついに涙を零し始めたような、そんな天気だった。
手に持った小さな傘をまだ開かずに、屋上の手すりに寄りかかって空を見上げている。
冷たい雨粒が頬に当たって、それがなんだか心地よかった。
和人くんは部活に来なかった。
表向きは「体調が悪い」ということになっているけれど、本当は一人でアプリ開発を続けているのだろう。
柚葉ちゃんが心配そうに「黒瀬先輩、大丈夫でしょうか」と呟いていたのが耳に残っている。
私は和人くんの気持ちが痛いほど分かる。
完璧でありたい。
期待に応えたい。
失敗して失望されるのが怖い。
でも、それと同時に思うのだ。
和人くんは、どうして一人で抱え込もうとするのだろう。
私たちがいるのに。
私がいるのに。
雨粒が少しずつ大きくなってきた。
でも、まだ傘を開く気にはなれない。
この雨に打たれていると、自分の気持ちが整理できるような気がした。
あの夜のことを思い出す。
和人くんが一生懸命に告白してくれた、夜景の美しい公園での出来事。
私がその告白を断った理由を、改めて考えてみた。
和人くんに無理してほしくなかった。
「頑張って隣に立てるように」なんて言わないでほしかった。
そんなことのために付き合うんじゃない。
自然なままのお互いを受け入れて、本物の関係になりたかった。
でも、今思うと、それは私の理想論だったのかもしれない。
和人くんは私の言葉を理解できずに、より一層自分を追い込んでしまった。
私が求めた「自然な和人くん」が、かえって和人くんを迷わせてしまった。
雨が強くなってきて、ついに傘を開いた。
パッと広がった水色の傘に、雨粒が踊るような音を立てる。
そんな時、屋上のドアが開く音がした。
振り返ると、柚葉ちゃんが小さな折りたたみ傘を持って立っていた。
「光先輩、いらっしゃったんですね」
柚葉ちゃんが安堵したような表情で近づいてくる。
「探しました」
「柚葉ちゃん。どうしたの?」
「部活の時間なのに、先輩がいらっしゃらなくて」
柚葉ちゃんは私の隣に並んで立った。
私たちは並んで雨に打たれる校庭を見下ろした。
誰もいないグラウンドに、雨粒が無数の小さな水たまりを作っている。
「柚葉ちゃん」
私が口を開いた。
「最近の和人くんのこと、どう思う?」
「心配です」
柚葉ちゃんが即座に答えた。
「すごく無理してる感じがして」
「私も同じ気持ち」
私は小さくため息をついた。
「でも、どうやって支えてあげればいいのか分からなくて」
「光先輩でも分からないことがあるんですね」
柚葉ちゃんが少し驚いたような顔をする。
「いつも完璧に見えるから」
「完璧なんて、とんでもない」
私は苦笑いした。
「私だって迷うし、間違えるし、分からないことだらけよ」
雨が激しくなってきた。
私たちは屋上の軒下に移動した。
「でも、光先輩は黒瀬先輩のことをすごく理解してると思います...」
柚葉ちゃんが遠慮がちに言った。
「理解してるかな...」
私は自信がなかった。
「最近、和人くんとの距離感が分からなくて」
「正解があるんでしょうか」
「近づきすぎても、離れすぎても、どちらも違う気がするの」
私は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
「私の想いが強すぎて、和人くんを追い詰めてるのかもしれない」
柚葉ちゃんは少し考えてから答えた。
「きっと届いてると思います。」
その優しい言葉に、私は胸が温かくなった。
同時に、申し訳ない気持ちも湧いてくる。
柚葉ちゃんも和人くんのことを好きなのに、こんなに私のことを気遣ってくれている。
私はそんな柚葉ちゃんの気持ちに、ちゃんと応えられているだろうか。
「柚葉ちゃん、ありがとう」
私は柚葉ちゃんの手を軽く握った。
「ねえ、部活楽しい...?」
「3人でいられたら何でもいいです。」
雨が少しずつ弱くなってきた。
でも、私たちの心の中にある複雑な気持ちは、簡単には晴れそうになかった。
それから私たちは屋上を出て、一緒に下校した。
柚葉ちゃんとの会話で、少しだけ心が軽くなったような気がした。
◇
でも、家に帰ってからも、和人くんのことが頭から離れなかった。
夕食も喉を通らず、宿題も手につかない。
お風呂に入っても、ベッドに入っても、ずっと和人くんのことばかり考えていた。
時計の針が23時を指した時、私はついに諦めて起き上がった。
このまま眠れそうにない。
何か温かい飲み物でも買ってこよう。
パジャマの上にパーカーを羽織って、財布だけ持って外に出た。
雨は完全に上がっていて、夜空には星がいくつか見えている。
家の近くのコンビニに向かって歩いていると、自動ドアの向こうに見覚えのある後ろ姿が見えた。
黒髪で、少し猫背で、疲れたような肩のライン。
和人くん。
私は驚いて立ち止まった。
こんな時間に、こんな場所で会うなんて。
和人くんは雑誌コーナーでプログラミング関連の専門誌を立ち読みしている。
その横顔は、いつものクラスで見る時よりもずっと疲れて見えた。
目の下の深いクマ、やつれた頬。
きっと今夜も寝ずに作業をしていたのだろう。
私は躊躇した。
声をかけるべきか、それともそっと帰るべきか。
でも、和人くんが雑誌を棚に戻して、エナジードリンクの棚に向かうのを見て、私は決心した。
このまま彼を一人にしておくわけにはいかない。
自動ドアが開く音で、和人くんがこちらを振り返った。
その瞬間、私たちの目が合う。
「天野...?」
和人くんの声は、驚きと戸惑いに満ちていた。
「こんな時間に、どうして...」
「眠れなくて」
私は正直に答えた。
「和人くんこそ、なんで?」
和人くんは少し困ったような表情をした。
「ちょっと、作業の続きをしてて...」
やっぱり。
私の予想は当たっていた。
コンビニの蛍光灯の下で、私たちは向かい合って立っていた。
誰もいない深夜の店内に、冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
こんな時間に、こんな場所で、二人きり。
これは偶然なのか、それとも必然なのか。
和人くんの手には、まだエナジードリンクが握られていた。
その小さな缶を見つめながら、私は愕然とした。
よく見ると、和人くんの手は微かに震えている。
顔色も異常に青白くて、立っているのがやっとという感じだった。
「和人くん、手が...」
私が心配になって声をかけた瞬間、和人くんの体がふらりと揺れた。
慌ててエナジードリンクの棚に手をついて体を支えている。
「だい...じょうぶ」
和人くんの声は、今にも消えそうなほど弱々しかった。
これは、大丈夫じゃない。
絶対に、大丈夫じゃない。
「和人くん、今日はもう休んだ方が...」
「あとちょっとなんだ」
和人くんは私の言葉を遮るように言った。
エナジードリンクをレジに持って行き、会計を済ませる。
その後ろ姿は、まるで糸の切れた人形のようにふらふらしていた。
でも、私には止める言葉が見つからなかった。
コンビニの自動ドアが開いて、和人くんが夜の闇に消えていく。
私はガラス越しに、その小さくなっていく後ろ姿をただ見送ることしかできなかった。
私に何ができるというのだろう。
胸の奥で、嫌な予感がざわめいていた。
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