今度は、俺が君に、俺の価値を証明しよう -1

 冬の海をく船。波しぶきの吹き荒れる甲板は、当然ながら寒い。

 どんよりと低く垂れこめる灰色の空の下で、ロアーナとヴィサルティスは手すりに掴まって海を眺めていた。波はそこそこ高く、船体が不安定に揺れる。ロアーナは平気だったが、シェナは船酔いで休んでいる。アースクレイルも姿が見えない。


「閣下は、男性しか愛せないと公言なさっておいででした。それが女性と結婚するとなれば、劇的な恋愛を演じなければなりません。さぁ、どうぞ」

「えーと、何を?」

 困ったように首のうしろをさする姿は、本当にシェナの言う「森のクマさん」のようだ。


 ロアーナの倍くらいありそうな高い身長。風でむちゃくちゃになっている、硬そうな黒い髪。時々、長く伸びた前髪の間から見える金色の瞳は、「戦神の申し子」などと呼ばれる騎士にしては、意外と穏やかで愛嬌がある。だがお飾りの将軍でない証拠に、荷物運びを依頼したら、ロアーナとシェナが二人がかりで準備した大荷物を、軽々と肩に担いで持ち運んでいた。


 意図が伝わらなかったようなので、ロアーナはコートの端を押さえていた手を放して、ヴィサルティスに向かって軽く両腕を差し伸べた。

「熱い抱擁をお願いいたします」

「はいはい、お嬢さんを抱っこすればいいんだな」

 ヴィサルティスは、わがままな親戚の子どもにでも言うように笑って、長い腕を伸ばすとロアーナを捕まえて、あたたかい胸の中に閉じ込めた。


 風がやんで、すべての音が消えた。

 厚手のコート越しに触れあっているだけなのに、何故こんなに温かいのだろう。まるで心臓の音まで聞こえそうなほど、近くに感じる。潮の香りにふわっと紛れ込む彼の匂い。


 なぁ、と心をくすぐるような低い声が、耳元で呼びかけてくる。

「冗談抜きでさ、お嬢さんのこと教えてよ。君ばかり、俺のこと知ってるのは不公平だろ?」

「……えぇ。大した話ではありませんが、それでもよろしければ」

 そうしてロアーナは、あたたかい風よけに守られながら、トラット男爵家に生まれてからのことを話し始めた。



 ロアーナはトラット男爵家の長女で、三歳離れた弟がいる。跡取りが生まれたことで、かろうじて夫婦の体裁を保っていた両親がそれぞれ好き勝手に遊び始める中、姉弟は文字の読み書きや計算などの初等教育を受ける。

 5歳の年、神殿で行われる祝福判定にて、豊穣と文化の神グランビュートの祝福『翻訳』を得たロアーナは、その能力を生かして、絵本や児童書、民話や神話などを翻訳する仕事を始めた。

「5歳で仕事を始めたのか!?」

「……赤ん坊の頃から、絵本ではなく新聞を読み聞かせてもらっていたので」

 これは嘘ではないのだが、時間を回帰したことまで話すわけにはいかない。前世の二十年分の知識で、アルマトラン公用語は不自由なく話せる。


 ヴィサルティスが驚いた通り、五歳の子どもの名前で仕事の依頼がくるはずがない。ロアーナは、家庭内で自分に親切にしてくれる使用人の力を借りた。

 乳母は、ロアーナが新聞を指し示すようになると、出来るだけ色んな種類の新聞を取り寄せて読んでくれた。また男爵家の業務の一端を担う補佐官は、勉強に興味を示したロアーナが、弟といっしょに勉強できるよう、両親に進言してくれた。彼は男爵家の近くに家庭があり、そこで病弱な妻とともに暮らしていた。彼女はほとんど家から出ることはなかったが、見舞いの花やお菓子を持っていくロアーナを可愛がってくれ、簡単な貴族の作法を教えてくれた。この妻の名を借りて、翻訳業を営むようになった。

 補佐官夫妻の身分は平民であり、平民の女性が働くことはごく一般的なことだった。貴族だけでなく、平民の富裕層も屋敷の管理のために人を雇うが、その大部分は女性使用人である。病弱な妻が室内で出来る仕事として翻訳を選び、それをロアーナが祝福で補助している、ということを誰も疑わない。

 祝福は、目や耳から入った言葉をアルマトラン公用語に変換してロアーナに伝えてくれるが、あくまで言語としてであり、文化や仕組みまでは伝えてくれない。例えば、五歳の子どもが「魔力蒸気機関車の動力と魔力石について」だとか「魔法と薬草学の発達における両者の確執」などという本を翻訳できるはずはなく、専門的な内容を翻訳するには知識が必要だった。

 しかし、弟とともに初等教育を受ける程度なら対した費用はかからないが、ロアーナのために家庭教師を雇うことに、両親は反対した。彼らは女に高度な教育は不要だと思っていたので。

 ロアーナには想定済みの事態なので、このように両親に進言した。

「しゃいきんは、おんなにもとめられる、きょうようのしつも、かわってきたといいます。しゃこうばで、だんしぇいのおはなしについていける、ちしきのあるおんなが、にんきなんだそうです。わたしは、たくさんべんきょうして、りっぱなおうちにとつぎたいと思います」

 どうせならより高貴な貴族に嫁がせた方が後々利益になるだろう――両親は話し合い、ロアーナに教師をつけてくれた。


 8歳とのき、北部のアルマトラン連合国と、南部の異民族の国、通称南部連邦との間にある自由都市ワルファラのカジノを題材にした『ホテル王の華麗なる日常』がヒット。それは、金銭とともにロアーナにさらなる知識欲をもたらした。

「南の異民族、東の野蛮族とひとくくりに呼んでいるけれど、そこには私たちと同じように知性を持った人々が文化を築いている。それをこの身で体験してこそ、『翻訳』は真価を発揮する!」

 貴族の屋敷には御用聞きの商人が出入りすることが多い。トラット男爵家にもそういう商人がいて、ロアーナはある商人夫婦に好感を抱いていた。


 そして10歳になったある日。両親にこんな話を持ちかける。

「しゅくふくを生かして、事業を始めようと思います」

 貴族の子女が働くことに否定的な風潮があるため両親は反対したが、同時に、ロアーナの持つ祝福が「金を生む」ことも知っていた。孝行な娘は、翻訳業で得た収入をきちんと男爵家の金庫に納めていたので、娘の次の言葉に、思わず緩みそうになる頬を引き締めなくてはならなかった。

「りっぱな男性とけっこんするためには、まとまったじさんきんが必要ですし、お金をたくさんかせぐことができたら、弟の事業をたすけ、お父さまとお母さまにいい暮らしをしていただけると考えたのですが……」

 こうして、対外的には療養のため暖かな南部地域に赴き、翻訳活動をしているというこという体で、ロアーナは行商人夫婦とともに旅立った。18歳を目前に領地に戻るまで、北部と南部を往復しながら成長し、その過程で『黒蜥蜴』の一員となり、現在に至る。


「すごいなぁ、君はまるで、ふたり分の人生を生きてきた人のようだ」

 というヴィサルティスの感想は、男爵令嬢ロアーナと、行商人の養女ロアのふたりを指すのだと思われるが、大いに身に覚えがあるため体を強張わせるロアーナ。

 それを寒さのためと勘違いしたのか――ヴィサルティスは自身のマントを脱いでロアーナにかぶせると、その上から肩を抱いて歩き始めた。

「すまん、お嬢さんの武勇伝は、あたたかい室内で蜂蜜レモンティーでも飲みながら聞くべきだったな」

「私は先日、成人しました。あまり子ども扱いなさらないでください」

 かぁっと頬がのぼせたが、それはヴィサルティスが分厚いマントを頭からかぶせたからで、ロアーナ自身の心の動きとはなんら関係ないはずだ。


(だって、私の中にはムーンが眠っているのだし)

 ロアーナの感情を養分として成長するという、聖獣ムーンファールは、今も沈黙を貫いている。前世に比べると感情の振れ幅が著しく減少したので、その存在を感じてはいるものの、それ以外の影響は感じない。

 そのはずなのだが、物好きにも甲板でワインをたしなんでいる老紳士や、船橋で勤務している乗務員クルーたちの意味ありげな視線に、いちいち手を振って応えているヴィサルティスを見ていると、胸の奥でなにかが、もそもそとくすぐったく動くのを感じるのだった。

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