《シーン2》
【佳莉】
けれど、いつからだろうか。眞絢の様子に、微かな違和感を抱き始めたのは────。
最初に気づいたのは、オフィスでのことだったように思う。フロアのどこかで誰かが咳をすれば、眞絢の肩が小さく跳ねるのを何度か目にした。最初は、単純に音が大きくて驚いたのだろうと、気に留めなかった。オフィスという空間は、時に無遠慮な音で満ちているため、敏感な人ならそう反応することもあるだろう。
そう思いながらも、自然にわたしの目は彼女の方に向いている。
その反応は一過性のものではなく、妙に継続性があった。
ごく日常的な、何でもない音。
部長が咳払いをした。しかし、眞絢はまるで稲妻に打たれたかのように、ぴくりと体を震わせる。彼女はすぐに何事もなかったかのように視線をパソコンの画面に戻したが、その一瞬、彼女の顔から血の気が引いたように見えたのは、わたしの気のせいではないはずだ。白い顔のままで、彼女の指先はキーボードの上でわずかに震えている。
それからも、それは続いた。隣の席の上司が喉を詰まらせた時、少し離れた部署の同僚が風邪でゴホンと咳き込んだ時。そのたびに、眞絢はびくりと反応する。音に驚くというよりも、むしろ何か恐ろしいものを見たかのような、ある種の拒絶反応に近いように見えてしまう。彼女の体は硬直し、その一瞬だけ、呼吸が止まっているようにすら感じられた。
わたしは、そっと眞絢を観察するようになっていた。彼女は、咳の音がするたびに、意識的に、あるいは無意識のうちに、その音の発生源を確かめようとしている。そして、音の主の顔を一瞥し、すぐに視線を逸らす。その一連の動作には、明らかな不自然さが伴っている。彼女の視線が、どこか怯えているような、何かを探っているような、そんな印象を与える。
「最近、疲れているみたいだよ?」
休憩時間、わたしは思い切ってそう声をかける。彼女の顔には、確かに疲労の色が濃く表れているように見えたため、やんわりとそう尋ねることにした。目の下には、うっすらと隈ができ、肌の艶も以前より失われている。
彼女は、はにかむように微笑んだ。
「うん、ちょっと眠くて……」
明らかに嘘である。ただの「眠い」という一言で片付けられるような疲労ではない。それは、もっと根深い、精神的な消耗が原因なのではないか。わたしの胸に、漠然とした疑念がわき上がった。
だが、あっという間に昼休みはすぎてしまい、翌日愛鶯と三人でランチに出かける約束をし、わたしたちは別れた。翌日の食事中、愛鶯が飲み物を間違えて気管に入れたらしく、激しく咳き込んだ。
ゴホッ、ゴホッと何度も繰り返す愛鶯の背を、わたしは慌てて摩った。その時、わたしの隣に座っていた眞絢が、まるでその場に縫い付けられたかのように固まっている。彼女は、愛鶯の方を向いていたが、その顔は真っ青で、口元はかなり引きつっていた。その表情は、心配しているというよりも、恐怖に怯えているような、異様なものだ。
愛鶯が落ち着きを取り戻し、「むせちゃった」と笑った時、眞絢はハッと我に返ったように、慌てて笑顔を作る。だが、その笑顔は不自然に引きつっており、すぐに消えていた。それからの眞絢は、どこか上の空で、会話にも心ここにあらずといった様子だった。
この一件で、わたしの疑念は確信に変わりつつある。眞絢は、何かを恐れている。そして、その恐れの対象は、「咳」なのではないか。そんな突飛な考えが、わたしの頭をよぎった。しかし、まさかそんな、とわたしはすぐに首を振った。
咳を恐れる────?
そんなことがあり得るのだろうか。だが、眞絢の反応を見る限り、それ以外の理由が見つからなかった。
わたしは社宅ではどうなのかと、会社帰り彼女の部屋によることにした。夕飯を取りながら話すまあやは、もう普段の彼女であった。
だが、社宅でも、眞絢の奇妙な行動は続いていた。 どこかの部屋から微かな咳の音が聞こえてくることがある。そのたびに、眞絢が自室のドアをぴたりと閉め、部屋の奥で息を潜めるように踞る。
わたしは彼女に尋ねたが、「窓を閉めるだけ。なんでもないよ」とはぐらかされてしまった。
彼女には申し訳ないと思ったが、わたしはテーブルにわざと足をぶつけ、大きな音を立てる。彼女がただ敏感なだけなら、怯えるはずだ。
眞絢は一瞬振り返ったが、すぐに平然を取り戻し、震えがない声で「どうしたの?」と尋ねた。
怯えていない。
一瞬驚いただけで肩は震えていない。
「最近、よく寝れてる?」
帰り道、わたしは眞絢に問いかけた。彼女の顔色は、入社当初よりも明らかに悪くなっている。まだ二週間ほどしか立っていない。睡眠不足のせいか、それとも他の何かか。咳────か。
「うん、まあ……。慣れないことばかりで、ちょっとね」
眞絢は、視線をわたしから逸らして答えた。その言葉の裏に、何か隠しているものがある。咳に脅えて疲れていることは、半分理解している。だが、そんなことがあるだろうか、と常識で考える。
しばらくたつと、彼女の言動の端々に、疲労と怯えているような影が常に付きまとうようになっていた。
眞絢のその異様な様子は、わたしの心に小さな棘のように刺さっていた。友人として、彼女を心配する気持ちと、理解できない現象への戸惑いが入りまじり、わたしを
わたしは、どうしたら眞絢の力になれるだろうか。あるいは、このまま彼女の異変を見過ごすべきなのだろうか。しかし、彼女の苦しんでいるような姿を見ていると、放っておくのには罪悪感がある。だが、迂闊に踏み込めば、彼女をさらに傷つけてしまうかもしれない。
眞絢の周りには、常に目には見えない壁があるようにおもう。その壁の向こう側で、彼女は何に怯え、何と戦っているのだろうか。わたしには、その真実が知りたい。奇妙な疑念が、わたしの心の中で、じわりじわりと大きな影を落とし始めていた。
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