【眞絢】
咳に怯える日々が、あまりにも緩慢に数年が過ぎ去り、わたしはとうとう社会人になった。あの家から、あの音の支配から逃れたい一心で、わたしは就職と同時に社宅に暮らすことを決めた。怖くて仕方がなかったのだ。高校時代、そして大学時代と、寮という選択肢は目の前にあった。同級生たちが当たり前のように共同生活の場を選んでゆくのを横目に、わたしは常に言い淀んだ。母のあの顔を、その咳の音を前にして、「家を出たい」などと口走る勇気は、ついぞ持てなかった。母自体は優しく、わたしが言えば認めてくれただろうが、般若の顔を重ねてしまう。結局、わたしは家で耐え続けてきた。あの音に、あの恐怖に、ひたすら耐え忍んできた。
しかし、今回の就職は違う。会社の所在地は、実家からは電車を乗り継ぎ、ゆうに二時間を要する場所だった。通勤時間を考えれば、社宅か、あるいは賃貸マンションかに住まなければ、現実的に通うことは不可能だ。母もその事情を理解していたため、わたしは「通勤が大変だから」というもっともらしい理由を掲げ、念願の社宅暮らしを希望することができた。家賃が格安であるという点も、母を納得させるには十分な理由だったのだろう。
ようやく、あの呪縛から解放される。わたしはそう信じていた。社宅の鍵を受け取り、一人分の荷物を運び込んだ時、わたしの胸には言いようのない安堵感が広がる。これでもう、夜中に響くあの咳の音に怯えることも、食卓で突然始まる苦悶の表情に息を詰まらせることもない。そう、確信した。
新しい生活は、それなりに新鮮で、わたしを束の間の解放感で包んだ。会社には、同じく新卒の友人ができた。承乃と愛鶯、佳莉の三人とは、同じ部署であったため、とても仲良くなっていた。皆、わたしと同じ歳で、ぎこちないながらも、互いの存在に支えられながら社会の荒波にたえる。仕事は多岐にわたり、覚えることも山ほどあって、連日疲れがかさんでゆく。そうして疲労困憊で眠りに落ちる時だけは、あの恐怖は影を潜めた。
だが、逃れられるはずのない影は、別の場所で姿を現す。
職場という空間は、予想以上に人の出す音で満ちていた。特に、乾いた咳払いや、少し湿り気を帯びた咳の音は、オフィス中に響き渡る。誰かが「ゴホン」と咳をすれば、わたしの心臓は一瞬にして跳ね上がる。それが、フロアのどこか遠くで鳴り響いても、あるいは隣の席から聞こえてきても、反応は同じだった。全身の毛穴が開き、皮膚の表面が粟立つような悪寒が背中を駆け上がる。
脳裏に、閃光のようにあの光景が蘇る。
ゴンッ、ゴンッゴホッゲフッ……。
耳鳴りのように響く母の咳の音。そして、その音に引きずられるように変貌していく母の顔。みるみるうちに赤く染まり、血管が浮き上がり、苦痛と怒りが入り混じったような般若の形相。それは、どれほど時間が経っても、どれほど距離が離れても、決して色褪せることのない、鮮烈な恐怖の記憶として残っていた。
仕事中、会議室で、休憩室で。社員が何気なく咳をする度、わたしの視界は歪む。目の前にいる同僚や上司の顔が、一瞬にして母の般若の顔に重なって見えてしまうのだ。普段は温厚な課長の顔が、優しい上司の笑顔が、あるいは親しい友人の承乃や愛鶯、佳莉の顔が、突如として血に染まった鬼の面へと変貌する。彼らの目が吊り上がり、口元が引きつり、額に青筋が浮き出る幻影に、わたしは息を呑む。
「眞絢さん、どうかしましたか?」
誰かの声が、遠くから聞こえてくる。ハッと我に返ると、目の前には心配そうにこちらを覗き込む同僚の顔がある。彼らの顔は、もとより恐ろしい般若の面などではなく、ごく普通の、人間らしい表情をしている。だが、わたしの心臓は未だ高鳴り、手のひらには嫌な汗が滲んでいる。
「いえ、なんでも……」
咄嗟にそう答えるが、声が上ずってしまったのが自分でも分かった。同僚は訝しげに首を傾げたが、それ以上は何も言わずに仕事に戻ってゆく。
この会社は、わたしが母の支配から逃れるための避難所だったはずだ。けれど、ここでもわたしは、あの頃と寸分違わぬ恐怖に苛まれている。むしろ、知らない人間の顔が般若に変貌する様は、実の母の顔である以上に、わたしを深く消耗させた。母の顔であれば、恐怖の根源は母という存在に限定できる。しかし、社内中の誰も彼もが、いつあの恐ろしい顔を見せるか分からないという事実は、わたしを常に緊張状態に置き続けた。
最初の新生活への期待は、一週間も立たぬうちに崩れ去っていた。
会議中、集中しなければならない時に、誰かの咳が聞こえる。資料に視線を落としながらも、わたしの耳はそちらの音を拾い続けてしまう。次に続くのは、どんな苦悶の響きだろうか。そして、その音の主は、どのような般若の顔を見せるのだろうか。そんな予期せぬ恐怖に怯えながら、わたしは仕事に集中することができない。
休憩時間、談笑している友人の誰かが、不意に咳をする。その瞬間、楽しかったはずの会話は頭に入ってこなくなる。友人の顔が、突然、あの忌まわしい形相に変わるのではないかという恐れに、わたしの全身はこわばる。
そしてそれは現実に────。
「最近、疲れているみたいだよ?」
佳莉が、心配そうにそう言ってくるがある。わたしはうまく言葉を返すことができず、ただ曖昧に笑うしかない。まさか、社内の人の咳一つに、これほどまでに怯え、精神的に追い詰められているなどと、誰に話せるだろうか。狂っていると思われるだろう。異常だと、奇妙だと、遠巻きにされるだろう。
社宅に帰ってきても、安心しきれない。隣の部屋から、あるいは廊下の向こうから、人の咳が聞こえてくることは稀ではない。そのたびに、わたしは耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。この社宅もまた、わたしにとっての安息の地にはなり得なかった。どこにいても、この恐怖はわたしを追いかけてくるのだ。
このまま、わたしは一生、咳の音と、それに続く幻影に怯えながら生きていくのだろうか。安らぎのない日々は、わたしから生気を奪い去ってゆく。疲れは蓄積し、夜は悪夢にうなされることが増えた。
社宅の自室で一人、わたしは天井を見上げる。遠くから、微かに、誰かの咳の音が聞こえたような気がした。錯覚だろうか。いや、幻聴か。しかし、その僅かな音の予感だけで、わたしの心臓はまた、ドクンと不規則に跳ね上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます