第17話 吉継の自刃 

小早川秀秋殿の裏切りという、あまりにも冷酷な現実が、関ヶ原の戦場の空気を一変させた。正午を過ぎた頃、松尾山から放たれた最初の砲声は、私にとって、勝利への希望を打ち砕く、絶望の序曲であった。笹尾山の本陣から、私はその光景を、ただ茫然と見つめるしかなかった。


大谷吉継殿の藤川台の陣は、まさに地獄と化した。正面からは福島正則隊、黒田長政隊、加藤清正隊といった徳川家康殿の東軍の猛攻を受け、そして背後からは、味方であるはずの小早川隊の容赦ない攻撃が襲いかかったのだ。吉継殿の兵士たちは、この予期せぬ、そして最もあってはならない裏切りに、一瞬にして士気を失い、混乱に陥った。


「吉継殿…!持ちこたえられよ…!」


私は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。しかし、私の声は、戦場の喧騒にかき消され、吉継殿の耳には届くはずもなかった。私の目には、吉継殿の陣が、まるで嵐の海に浮かぶ小舟のように、東軍と小早川隊の波に呑み込まれていくのが見えた。


吉継殿は、それでもなお、指揮を執り続けていた。病に蝕まれたその体は、もはや立っていることすら困難であったろうに、彼は輿に乗り、兵士たちを鼓舞していた。彼の顔は、この世の苦しみを全て背負ったかのように蒼白であったが、その瞳には、なおも揺るぎない武士の魂が宿っていた。


「この吉継、決して持ち場を離れませぬ!」


彼の声が、風に乗って、かすかに私の耳に届いた気がした。それは、吉継殿が、最後まで私への忠義を貫き通そうとしている、何よりの証であった。彼の言葉は、私の胸を激しく揺さぶった。私を、そして豊臣家を守るために、彼は、病の身で、今、まさに死力を尽くして戦っているのだ。


しかし、多勢に無勢。加えて、背後からの攻撃は、防ぎようがなかった。吉継殿の陣は、みるみるうちに壊滅へと向かっていった。兵士たちは、次々と倒れ、その屍が累々と積み重なっていく。それでもなお、吉継殿の兵士たちは、主君の命を守るべく、必死に抵抗を続けていた。


私の視線は、再び松尾山に固定された。小早川秀秋。彼は、この光景を、きっと松尾山から見下ろしているだろう。彼の胸には、一体何が去来しているのか。勝利への歓喜か、それとも、同胞を裏切ったことへの罪悪感か。私は、彼の顔をこの目で見て、彼の心を問い質したかった。


吉継殿の陣は、もはやその形を保っていなかった。兵士たちの数が激減し、残された者たちも、疲労と絶望に打ちひしがれている。私は、彼の陣に援軍を送ることを考えた。だが、もし援軍を送れば、私の本陣が手薄になり、他の隊の戦線が崩壊する危険がある。私は、全軍の指揮官として、冷静に判断を下さねばならなかった。しかし、私の心は、吉継殿の苦境に、深く切り裂かれていた。


「くそっ…!なぜだ…!なぜ、吉継殿ばかりが…!」


私は、歯を食いしばり、拳を握りしめた。自らの無力さに、深い憤りを覚えた。私は、彼を救うことができない。この事実が、私を打ちのめした。


そして、その時が来た。


正午を過ぎた頃、吉継殿の陣から、突如として激しい火の手が上がった。彼の本陣が、炎に包まれたのだ。そして、その炎の中に、吉継殿の姿が消えていくのが見えた。


「吉継殿っ!!」


私の叫び声は、虚しく戦場の空に消えていった。


彼の自刃である。


私は、その場に崩れ落ちそうになった。私の最も信頼する友が、病と戦いながら、そして私のために、最期まで戦い抜き、そして自らの命を絶ったのだ。彼の死は、私にとって、あまりにも大きな痛手であった。それは、単なる一人の武将の死ではない。それは、豊臣の未来を信じ、私と共に歩んできた、最も大切な光の喪失であった。


彼の死は、戦場全体に衝撃を与えた。東軍は、吉継殿の死を知り、さらに士気を高めた。そして、西軍は、吉継殿の死によって、その戦意を完全に失い始めた。


宇喜多秀家殿の隊は、吉継殿の死を知り、動揺の色を隠せないでいた。小西行長殿の隊も、疲労困憊の末、後退を始めた。南宮山に布陣していた毛利秀元殿の毛利軍も、依然として動こうとしない。彼らの目は、もはや戦場ではなく、自らの身の保身へと向いているかのようだった。


私は、吉継殿の死を無駄にしてはならないと、固く決意した。彼の死は、私に、豊臣家を守るという使命を、改めて強く意識させた。たとえ、この戦に敗れようとも、吉継殿の魂は、私の中に生き続ける。


私は、自らの無力さに苛まれながらも、立ち上がった。指揮官として、私は最後まで戦い抜かねばならない。吉継殿の死は、私に深い悲しみをもたらしたが、同時に、私の心に、決して消えることのない炎を灯した。


「吉継殿…貴殿の死は、決して無駄にはさせぬ。必ずや、家康を討ち、豊臣の天下を守り抜いてみせる!」


私は、心の中で叫んだ。そして、吉継殿の亡骸が煙に包まれていく藤川台へと、深く頭を下げた。彼の死は、私にとって、あまりにも重い、そしてあまりにも悲しい、関ヶ原の戦いの転換点となった。






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