第18話 西軍の崩壊

大谷吉継殿の自刃は、小早川秀秋殿の裏切りと相まって、西軍に決定的な打撃を与えた。笹尾山の本陣から、私はその惨状を、ただ呆然と見つめるしかなかった。吉継殿の藤川台の陣から立ち上る黒煙は、まるで西軍の希望が燃え尽きていくかのように、私の目に映った。


「吉継殿…」


私の口から漏れたのは、力のない呟きだった。彼の死は、私の最も信頼する友を失った悲しみだけでなく、西軍全体の士気を根底から揺るがすものであった。吉継殿こそ、病に蝕まれながらも、冷静な采配と揺るぎない忠義で、徳川家康殿の東軍の猛攻を支え続けていた要であった。その彼が倒れた今、西軍の防衛線は、もはや維持しきれないことは明白だった。


小早川秀秋殿の裏切りを皮切りに、西軍の連携は次々と崩れていった。まるで、一本の糸が切れたかのように、全体の均衡が失われていく。


まず、宇喜多秀家殿の隊が、壊滅的な状況に陥った。彼らは、福島正則隊と加藤清正隊の猛攻に加え、松尾山からの一方的な攻撃に晒され、兵士たちの士気は限界に達していた。秀家殿は、若き血潮に任せて奮戦し、自ら刀を振るって兵を鼓舞していたが、彼自身の負傷も深く、部隊は総崩れとなった。無数の兵士たちが戦場に倒れ、宇喜多隊は、最早組織的な抵抗を続ける力を失っていた。彼らが、無残にも戦場から退いていく姿を見て、私の胸は張り裂けそうになった。


次に、小西行長殿の隊も、東軍の攻勢に耐えきれなくなっていた。行長殿は、勇敢にも最前線で指揮を執っていたが、彼もまた、吉継殿の死と秀秋殿の裏切りという、あまりにも大きな衝撃を受けていた。彼の兵士たちも、疲労困憊の末、次第に戦意を喪失していった。多くの者が、戦場から逃げ出し始め、彼の隊もまた、崩壊の一途を辿っていった。


そして、私の最も懸念していた事態が、現実のものとなった。南宮山に布陣していた毛利秀元殿の毛利軍が、終始、動こうとしなかったのだ。彼らは、毛利輝元殿の「命令があるまで動くな」という指示を頑なに守り、戦場が地獄絵図と化しても、微動だにしなかった。


私は、毛利秀元殿に、何度も使者を送った。「今こそ、家康の背後を突く好機!秀秋の裏切りを挽回するのだ!」と、必死に説得を試みた。しかし、彼からの返答は、常に「総大将の指示を待つ」というものだった。輝元殿が大坂城に籠もったまま、戦場に赴かないことが、この致命的な結果を招いたのだ。毛利軍の莫大な兵力は、戦場では何の役にも立たず、ただ西軍の士気を削ぐだけの存在となっていた。彼らの不参加は、西軍にとって、秀秋殿の裏切りに次ぐ、致命的な打撃であった。


島津義弘殿の隊もまた、孤立無援の状態で奮戦していたが、西軍全体の崩壊の中で、彼らが単独で戦況を覆すことは不可能であった。彼らは、関ヶ原盆地の南端で、東軍の一部と交戦していたが、やがてその戦線も維持できなくなり、撤退を余儀なくされた。


戦場は、完全に東軍の優勢へと傾いていた。徳川家康殿は、松尾山からの小早川隊の攻撃を見て、勝利を確信したのだろう。彼の本陣からは、東軍全体の士気を高めるための、勝利の鬨の声が響き渡った。その声は、敗れゆく西軍の兵士たちには、まるで死神の嘲笑のように聞こえたに違いない。


私の本陣、笹尾山にも、東軍の攻撃が迫りつつあった。周囲の隊が次々と壊滅していく中、私の本陣もまた、孤立無援の状態に陥っていた。兵士たちの顔には、恐怖と絶望の色が濃く浮かんでいた。


私は、自らの無力さを痛感した。私の采配は、吉継殿の献身的な奮戦と、宇喜多殿や行長殿の武勇によって、かろうじて保たれていただけだった。しかし、小早川秀秋殿の裏切り、そして毛利軍の不参加という、あまりにも大きな誤算が、私の全ての努力を水泡に帰させたのだ。


「敗北…」


私の口から、その言葉がこぼれ落ちた。それは、認めがたい現実でありながら、同時に避けられない真実であった。私は、太閤の遺志を継ぎ、幼き秀頼様をお守りするという誓いを、この関ヶ原の地で果たすことができなかった。この事実が、私の心を深く切り裂いた。


私は、戦場全体をもう一度見渡した。西軍の旗指物は、次々と地に倒され、代わりに東軍の白い旗が、勝利の風になびいていた。そこには、かつて太閤が築き上げた、平和な豊臣の天下の面影は、もうどこにもなかった。


私の心には、深い悲しみと、そして言いようのない悔恨が渦巻いていた。もし、あの時、私がもっと早く挙兵していれば。もし、あの時、人質作戦を決行していれば。もし、あの時、秀秋殿の裏切りにもっと徹底的に備えていれば。あるいは、もし、毛利輝元殿が戦場に赴いていれば。無数の「もしも」が、私の脳裏を駆け巡った。


しかし、もはや時間は戻らない。戦は、すでに決したのだ。


私は、本陣の兵士たちに、最後の指示を出した。「もはや、これまで。各々、命惜しまず、最後まで戦い抜け!」


私の声は、震えていた。しかし、私は、最後まで武士としての矜持を保たねばならない。私は、自らの命を賭けて、太閤への忠義を貫き通すことを誓った。


西軍の崩壊は、まさに目の前で起こっていた。そして、その崩壊の渦中に、私もまた、巻き込まれていくことになるだろう。私の胸中には、深い絶望と、そして、潔く死を受け入れる覚悟が、静かに芽生え始めていた。関ヶ原の空は、西軍の血で染まり、天下は、徳川家康の手中に落ちることを、無情にも告げていた。

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