第15話 吉継の奮戦
関ヶ原の戦いが始まって数刻、戦場はもはや地獄絵図と化していた。午前八時頃に始まった福島正則隊と宇喜多秀家隊の激突を皮切りに、東軍の各隊は、怒涛のごとく西軍へと襲いかかってきた。笹尾山の本陣から戦場全体を見下ろす私は、その激しい攻防を、まるで息を詰めるように見守っていた。
中でも、私の最も心を揺さぶったのは、大谷吉継殿の奮戦であった。彼は、藤川台の要衝に陣取り、黒田長政隊、そして加藤清正隊といった東軍の猛攻を、一手に引き受けていた。吉継殿の病は、すでに全身を蝕んでいるはずだ。彼の顔は、いつも以上に青白く、その体は疲れ果てているように見えた。しかし、彼の指揮は、いささかの乱れもなかった。
「敵は、まさに吉継殿の陣を狙い撃ちにしておる…!」
私は、本陣の兵士たちに、吉継殿の陣の状況を絶えず報告させるよう命じた。吉継殿の陣は、松尾山に陣取る小早川秀秋殿からの攻撃にも備える必要があったため、兵力が分散されていた。その状況で、東軍の主力を相手に戦い続けているのだ。その苦境は、想像を絶するものだった。
吉継殿は、地の利を最大限に生かしていた。彼の陣は、周囲に堀や柵を巡らせ、東軍の突撃を巧みに防いでいた。また、兵士たちの配置も絶妙で、東軍が押し寄せれば、横槍を入れる形で側面から攻撃を仕掛け、彼らの勢いを削いでいた。吉継殿の采配は、まさに「神がかり」としか言いようがないほどに鮮やかであった。
彼の陣の兵士たちは、吉継殿の指揮の下、驚くべき士気で戦っていた。彼らは、病の主君が最前線で指揮を執る姿に、強い感銘を受けているのだろう。彼らの顔には、疲労の色が濃く出ていたが、その瞳には、勝利への、そして主君への強い忠誠心が宿っていた。
しかし、東軍の攻撃は、休むことなく続いた。福島正則隊は、吉継隊の側面へと回り込もうとし、加藤清正隊は、正面から猛攻を仕掛けてきた。彼らの兵力は、吉継隊をはるかに上回っていた。
「吉継殿、持ちこたえられよ!」
私は、笹尾山から、心の中で叫んだ。今、私が吉継殿の陣に援軍を送ることはできない。私は、全軍の指揮を執る立場であり、本陣を空けることはできないのだ。それに、援軍を送れば、他の隊が手薄になり、全体の戦況に悪影響を及ぼす可能性がある。
私は、吉継殿の陣に、激励の使者を幾度も送った。「三成殿はご心配召されるな。この吉継、たとえこの身が朽ち果てようとも、必ずや持ち場を守り抜きまする!」という返答が、使者から伝えられるたびに、私の胸は熱くなった。
戦況は、依然として膠着状態であった。東軍は、宇喜多秀家隊、小西行長隊、そして吉継殿の隊の堅固な守りに阻まれ、なかなか突破口を開くことができない。しかし、彼らは決して諦めず、波状攻撃を繰り返してきた。
特に、吉継殿の陣に対する東軍の執着は、異常なほどであった。おそらく家康殿も、吉継殿の采配の妙を悟り、彼を打ち破ることが戦況を打開する鍵だと見抜いたのだろう。彼らは、吉継殿の陣に、次々と兵力を投入し、その突破を図ろうとしていた。
私は、吉継殿の奮戦を見ながら、一つの策を思い巡らせた。このままでは、吉継殿の陣は、いずれ力尽きてしまうだろう。どこかで、戦況を打開する一手を打たねばならない。
私の目は、再び松尾山へと向かった。小早川秀秋殿は、いまだ動かない。彼の隊は、戦場全体を見下ろせる絶好の位置にいるにもかかわらず、まるで傍観者のように戦況を見つめている。彼の沈黙は、私にとって大きな不安要素であった。
「秀秋殿…一体、何を考えておるのだ…!」
私は、苛立ちを覚えずにはいられなかった。しかし、吉継殿の忠告が脳裏をよぎる。「彼の動向に惑わされることなかれ」。私は、秀秋殿の裏切りを警戒しつつも、彼に振り回されることなく、冷静に戦場を指揮することに努めた。
吉継殿の陣からは、絶えず激しい戦闘の音が聞こえてきた。兵士たちの怒号、刀と槍がぶつかり合う金属音、そして、血の匂いが、風に乗って笹尾山まで漂ってくる。私は、吉継殿の無事を祈りながら、戦況を見守り続けた。
正午が近づくにつれて、東軍の攻撃は、さらにその勢いを増していった。吉継殿の陣も、さすがに疲弊の色が見え始めた。しかし、吉継殿は、依然として冷静に指揮を執り、兵士たちを鼓舞していた。
「吉継殿…」
私は、彼の奮戦に、深い感動を覚えずにはいられなかった。彼は、病の身でありながら、私への、そして豊臣家への忠義を貫き通そうとしている。彼の存在は、私にとって、まさに絶望的な状況の中の一筋の光であった。
私は、吉継殿の奮戦を無駄にしてはならないと、改めて心に誓った。そして、この戦の勝利を、必ずや彼に捧げると、固く決意した。しかし、戦の行方は、まだ見えない。吉継殿の奮戦は続くが、いつまで持ちこたえられるのか。私の心には、拭い去れない不安が残っていた。
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