第14話 開戦の時

慶長五年九月十五日、夜が明け始めた関ヶ原の盆地は、深い霧に覆われていた。まるで、神がこの天下分け目の戦を、一瞬でも長く隠しておこうとしているかのようだった。笹尾山の本陣に陣取った私は、この濃霧の中で、息を潜めてその時を待っていた。


霧は、視界を完全に遮り、数歩先の兵士の姿さえもぼやけさせていた。しかし、その霧の向こうには、徳川家康殿率いる東軍が、確実に布陣を完了させているはずだ。そして、西軍の各隊もまた、私の指示通りにそれぞれの持ち場につき、静かに開戦の時を待っていた。


私の胸中は、静かなる興奮と、そして張り詰めた緊張感で満たされていた。吉継殿の忠告が脳裏をよぎる。小早川秀秋殿の動向は、依然として不明だ。彼は、この霧の中で、一体何を考えているのか。彼がどちらに転ぶかによって、戦の趨勢は大きく変わるだろう。


時間が、ひどくゆっくりと流れているように感じられた。私は、本陣の兵士たちに、最大限の警戒を促し、そして、東の空から差し込むであろう光を待った。


午前八時頃、天は、その厚い帳を下ろすのをやめた。盆地を覆っていた濃霧が、まるで薄絹が剥がれるように、徐々に晴れていった。そして、霧の向こうから、朝日が差し込み始めた。その光が、関ヶ原の野を照らし出すと、私は、ついにその光景を目の当たりにした。


目の前には、広大な平野が広がり、その東側には、数えきれないほどの旗指物が林立していた。徳川家康殿の東軍である。その数は、まさに圧倒的であった。福島正則、加藤清正、黒田長政といった、私への敵意を剥き出しにする武断派の旗印が、風になびいているのがはっきりと見えた。彼らの陣容は、想像以上に整っており、その士気も高そうに見えた。


そして、西軍の陣もまた、霧の中から姿を現した。私の本陣である笹尾山の麓には、宇喜多秀家殿の隊が、そしてその南には小西行長殿の隊が、そして、私の最も信頼する友、大谷吉継殿の隊が、藤川台の要衝を固めていた。南宮山には、毛利秀元殿の毛利軍が、そしてその近くには島津義弘殿の隊が布陣しているのが見えた。そして、私の視線は、再び松尾山へと向かった。そこには、やはり小早川秀秋殿の隊が、静かに控えている。彼の旗指物は、まだ西軍の旗色を掲げていた。


戦場は、静寂に包まれていた。両軍の兵士たちは、互いを睨みつけ、まるで嵐の前の海のようだった。その張り詰めた空気は、肌で感じられるほどに濃密であった。


そして、その静寂を打ち破る、最初の咆哮が響き渡った。


午前八時頃、東軍の先鋒、福島正則隊が、ついに動き出した。彼らは、雄叫びを上げながら、西軍の宇喜多秀家隊へと突撃を開始したのだ。


「来たか!」


私は、思わず声を上げた。ついに、戦いの火蓋が切られたのだ。


福島正則隊は、猛烈な勢いで宇喜多秀家隊に襲いかかった。秀家殿の隊も、負けじと応戦し、両軍は瞬く間に激しい白兵戦へと突入した。刀と槍がぶつかり合う音、兵士たちの怒号、そして血肉が飛び散る音。戦場の喧騒が、笹尾山まで響き渡った。


私は、高所から戦況を冷静に観察した。福島正則隊は、私への個人的な憎悪に燃えているだけあって、その攻撃はすさまじい。しかし、宇喜多秀家隊も、若くして武勇に優れた秀家殿が率いるだけあり、粘り強く応戦している。戦況は、一進一退の攻防が繰り広げられていた。


私は、直ちに各隊に指示を送った。


「宇喜多殿は、踏ん張られよ!小西殿、側面に圧力をかけよ!」


私の号令が、伝令を介して各隊に伝えられていく。戦場は、まさに生き物のように動き出し、刻一刻と変化していく。


そして、東軍の他の部隊も、続々と攻撃を開始した。加藤清正隊が小西行長隊に、黒田長政隊が大谷吉継隊に襲いかかった。戦場全体が、一気に激戦の渦に巻き込まれていった。


特に、大谷吉継殿の陣は、最も厳しい戦いを強いられていた。彼の陣は、松尾山からの攻撃にも備える必要があり、他の隊よりも兵力が分散されていた。しかし、吉継殿は、病の身でありながら、冷静沈着な采配で、東軍の猛攻をよく防いでいた。彼の指揮は、まさに神業としか言いようがない。彼は、私の最も信頼する友であり、彼の奮戦は、私に大きな勇気を与えてくれた。


しかし、戦況は、依然として膠着状態であった。東軍の兵力は圧倒的であり、彼らの猛攻は止まることを知らない。西軍も奮戦しているが、いよいよ体力の消耗が激しくなってきている。


私は、松尾山の小早川秀秋殿の陣に、再度視線を向けた。彼は、まだ動かない。彼の隊は、戦場全体を見下ろせる絶好の位置にありながら、戦に参加しようとしない。彼は、一体何を待っているのか。家康殿からの指示か。それとも、戦況が有利になるのを待っているのか。


彼の動かない姿は、私にとって大きな不安要素であった。もし彼が家康殿に寝返れば、西軍は壊滅的な打撃を受けるだろう。私は、吉継殿の忠告を思い出した。「決して彼の動向に惑わされることなかれ」。


私は、自身の冷静さを保つことに努めた。戦は、まだ始まったばかりだ。しかし、この最初の激突で、両軍の士気と実力が試されている。私は、西軍の兵士たちに、この戦が豊臣家を守るための正義の戦であることを、改めて心に刻むよう念じた。


関ヶ原の野には、怒号と悲鳴が響き渡り、血の匂いが漂い始めた。私は、この激戦の渦中で、自らの役割を全うすることを誓った。豊臣の天下を守るため、私は、この戦に全てを賭ける。開戦の時、私の胸には、その確固たる決意が燃え上がっていた。

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