第23話 「命の約束、希望の約束」

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「彼が言った言葉が、頭の中で響き続けていた。冷たく、無情な旋律のように、私を追いかけてくる。――『もう会わないほうがいい』。その声、その冷たい響きが、私の心を切り裂いていた。涙が頬を伝っても、街は何も気づかない。街灯は冷たく、夜道は静かで、私の世界はまた崩れ落ちたように感じた。歩いているのに、まるでその場に立ち尽くしているようだった。あの小さな贈り物に、私は心と希望を込めたのに、彼は残酷な別れを返してきた。すべてが嘘だったの? 一緒に食べた食事も、静かな会話も、彼が私を見つめるときのあの優しい目も……全部演技だったの? 胸が押しつぶされるように苦しい。息をすることさえ辛い。せっかく抜け出したはずの孤独な世界に、また逆戻りしてしまった気がした。再び、広大で冷たい世界の中で、私はただ一人の孤独な存在になってしまった。」


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まるで中身を失った殻のように、家へと帰り着いた。

小さなアパートに染みついた、紙や木の匂い――静かな生活の匂いが、今はどこかよそよそしく、温もりを失っていた。

靴を脱ぐ動きすら、まるで機械のようにぎこちなかった。私はまっすぐ自分の部屋に向かった。

小さな部屋の空気は冷たくて、無機質で、息が詰まるようだった。着替える気力もなく、私はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。

声も出さずにただ泣き続けた。やがて、涙に疲れ果てて、私は意識を失った。

最後に覚えているのは、涙の苦い味と、彼の言葉が私の心を切り裂いた、鋭い痛みだけだった。


眠りは救いではなかった。

再び、あの白く幻想的な空間に立っていた。しかし、今回はより冷たく、光は刺すように強く、ほとんど目を開けていられなかった。そこにレンさんがいた。以前よりも悲しげな顔、輪郭はかすみ、消えかけている。


「さようなら……元気で、ヒカリさん……」

彼の声は広大な虚空にこだまし、細い糸がぷつりと切れるように、最後のつながりを失わせた。


そして、白い世界は溶けて消えた。

代わりに現れたのは、前の夢で見た黒い傘たち。今回はより鮮明で、雨が布を叩く音まで聞こえる。その音は哀しく、空虚で、胸を締めつける。風が黒衣を揺らし、孤独なため息のように耳に届く。


そして一枚の写真が視界に置かれた。小さな祭壇の上に、レンさんの笑顔――優しく、しかし深い悲しみを湛えた目がこちらを見ていた。

それは彼の葬儀だった。昨日の夢で味わったあの耐え難い悲しみが再び押し寄せ、胸を押し潰した。生き生きとした顔が、祭壇に飾られている。その恐怖を、彼女は理解できなかった。


息を詰まらせ、悲鳴にならない金切り声のようなものを上げて目を覚ました。

全身が震え、冷や汗をかいていた。パジャマは肌に張り付き、枕は夢ではなく現実の熱い涙で濡れていた。

壁のポスターや整然と並んだ本――見慣れた部屋を目にし、ほっとする気持ちと同時に、もっと深い絶望に襲われる。


「……夢だったんだ」

かすれる声でつぶやいた。だが次の瞬間、もっと苦しい思いが胸に浮かぶ。濡れた枕に触れ、現実の痛みを確かめるように、またつぶやいた。

夢の中でも泣いていて、現実でも泣いていた。

痛みは、本物だった。

別れも、本物だった。


現実が、ただただ耐えられなかった。


夢の中の恐怖と、昨日の痛みが混ざり合い、巨大な波のように私を飲み込んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

偶然の出会い----


朝が来た。カーテンの隙間から差し込む光は、灰色で、くすんでいて、静かだった。

日曜日は休む日のはずなのに、私の心は休まらず、体は悲しみに押しつぶされそうに重かった。

掃除をしながらも、昨日の彼の言葉と、あの冷たい表情が、頭の中で何度も繰り返されていた。床を拭き、物を片付ける一つ一つの動作が、バラバラになった自分をどうにか繋ぎ止めようとする、必死な試みのように感じられた。

買い物に出かけることにした。歩みは弱々しく、肩は落ち、世界は明るすぎて、うるさすぎて、自分とは無縁の命で溢れていた。高校生たちの笑い声が耳に突き刺さり、幸せが痛みとなった。


買い物袋を抱え、足は自然と小さな公園へ向かっていた。ベンチに腰掛け、遊ぶ子供たちを眺める。笑い声が木々の間に響き渡り、美しいはずのその音が胸をさらにえぐる。両親に手を引かれて歩く子どもたち、その姿は壊れない愛の象徴に見えた。


頬を涙が伝う。拭う気力さえなかった。

「……あの日々が、また戻ってきてほしい……もう耐えられない……」

レンとの穏やかで幸せな時間は、残酷に閉ざされた遠い記憶に過ぎなかった。


そのとき、柔らかな声が響いた。

「すみません、ここ、座ってもよろしいでしょうか?」


顔を上げると、穏やかな皺を刻んだ老婦人が立っていた。小さな袋を持ち、優しい瞳をしていた。まるで嵐の中の静けさのように落ち着いた存在感。


ヒカリは慌てて立ち上がった。

「は、はい……どうぞ」


老婦人は静かに私の隣に腰を下ろした。

小さな子供たちが母親と一緒にいるのを見た時、私の目に涙が浮かんだ。それは、もう会うことのできない母と祖母の愛を思い出した涙だった。


やがて、老婦人が口を開いた。

「大切な人を失うのは、本当に心を裂かれるほど辛いものね……息をするのさえ苦しくなるくらい」


ヒカリの心臓が止まったように感じた。

「え……?」


老婦人は続けた。

「もし死で人を失ったなら、それは耐え難いもの。どれほど神に祈っても、願っても、二度と会えない。でも……生きているのに離れてしまったなら、それはまだ希望があるのよ。神様はもう一度出会い、話す機会を与えてくれている。愛の強さを示せる機会を」


ヒカリは息を呑んだ。まるで心の奥を見透かされているようだった。


老婦人は微笑み、静かに続けた。

「どうしてそんな顔をするの?」


この子たちを見ていると、楽しかった頃を思い出すんです。両親が私を守ってくれて、決して一人にしないと信じていたあの頃を。

でも、私たちはいつか、遅かれ早かれ、必ず親を亡くす運命だってことを忘れていた。それが人生だ。

どれだけ祈っても、一度逝ってしまった人は決して戻ってこない。そして、それが、こんなにも耐えられないんだ。

ヒカリの目から新しい涙が溢れた。祖母を失ったときの痛みが蘇り、拳を膝に握りしめた。


老婦人は穏やかに続けた。

「でもね……まだ生きている人は、大切にしなさい。どれほど怒っても、無視しても、心のどこかには必ず『愛』が残っているもの。目をよく見ればわかるわ。


怒りの新しい涙が目に浮かんだ。祖母、母、父を亡くした痛みが、一気に蘇ってきた。そして、私は膝の上で、きつく拳を握りしめた。


その言葉を聞いて、私はレンさんの姿を思い出した。

初めて会った時の、彼の優しい笑顔。

私が恥ずかしがっているのを見て、微笑んだ時の顔。

一緒に食事をした時の、彼の嬉しそうな表情。

そして…昨日の彼の顔。


怒りで歪んでいた顔。でも、その目の奥には、深い悲しみと恐怖が隠されていた。


私はその老婦人を、答えを求めるように見つめた。

ヒカリは老婦人を見つめた。答えを求めるように。

老婦人は微笑み、目を細めた。

「そんなに私を見つめて……まるで自分の話のように?」

「い、いえ……なんでもありません」


老婦人は意味深に微笑む。

「だからこそ学んだの。まだ生きていて、事情があって気持ちを隠している人を……手遅れになる前に愛しなさい」


そう言って立ち上がる。ゆっくりと、だが優雅に。

「席を貸してくれてありがとうね。では、失礼します」


心臓の鼓動が速くなり、私は本能的に彼を呼びかけた。

「……あの、もし……理由もなく離れていった人がいたとしても……その人は、まだ私を……?」


老婦人は振り返り、静かに、確信に満ちた声で言った。

「ええ。彼はあなたを愛しているわ。一生涯、そして死んでもなお。あなたは彼にとってかけがえのない存在だから。彼には理由があるの。あなたには見えない戦いを抱えているのよ。でも愛は消えない。それを忘れないで」


彼女は少しの間黙ってから、悲しそうに続けた。

「だから……話し続けなさい。愛し続けなさい。無視されても、叱られても、妥協しないで。手遅れになる前に」


軽く会釈し、

「じゃあね。元気で」


その言葉を残して、彼女は去っていった。

彼女が去っていくのを見つめながら、私の心には混乱と、新しい決意が生まれていた。

…彼女は、何かを知っていたのだろうか?まるで天使のように…それとも、ただ私の目に、彼女自身の痛みを見ていたのだろうか?

答えは分からなかった。だが、その言葉は確かに、私に一筋の希望を残していった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


賜物の真実---


場面は、薄暗いレンのアパートへと移る。

彼は床に座り、膝の上にはヒカリからの小さな贈り物の箱が置かれていた。外箱は美しく、手作りの温もりがこもったデザインだった。


紙には繊細な模様――小さな公園へ続く小道のスケッチが描かれていた。

それは彼が、子供のころによく遊んだ公園の話をヒカリにしたときのことを思い出させる。彼は指でその線をなぞった。


だが、道の先に進むほど、色は薄れ、線はぼやけ、やがて真っ白な空白に溶けて消えていた。

その意味を理解した瞬間、レンの胸は締め付けられた。

耐えがたい痛みに、彼はそっと目を閉じた。その頬を、一筋の涙が伝った。


それは、彼が生きる偽りの人生の、静かな証だった。

「……ヒカリさん……僕は、どうすればいい……?」

掠れた声でつぶやく。彼女がこれほどまでに心を差し出してくるのなら、もう突き放すことなどできなかった。


彼は震える手で箱を開けた。

中には柔らかな絹に包まれた一本の万年筆が静かに収まっていた。

レンがそれを手に取ると、胸が強く締め付けられた。

本当は、未来を共に描くための象徴として、自分が彼女に万年筆を贈りたかったのだ。だが今、壊れかけた道をそれでも共に歩みたいという彼女の想いの象徴として、彼女がそれをレンに贈ってきた。


万年筆は手の中で重く、確かな存在感を放っていた。

愛の重みが現実のように、永久のように感じられ――皮肉にも、それは脆く儚い自分の人生への残酷な冗談のようだった。


彼は便箋を取り出し、重い心を抱えながらペン先を走らせた。インクはなめらかに流れ、万年筆はまるで自分の手の一部のように馴染んだ。


その文字は、誰にも見せられない、心の奥底に閉じ込めた告白だった。

彼は手紙を書き始めた。

「親愛なるヒカリへ、僕の命」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


希望の食卓----


その晩、私は自宅へ戻った。頭の中では、あの老婦人の言葉がずっと響いていた。


――レンさんはまだ私を愛している。


そうだ、レンさんは昨日、本当は怒っていたんじゃない。怖かったのだ。私が無謀だったせいで。彼の目に一瞬だけ宿った、あのむき出しの恐怖。あれは怒りではなく、愛だった。今はそれが悲しみに変わっているだけ――。


私は小さく息を吸い、キッチンへ向かった。「……もしかして、あのおばあさんの言う通りかもしれない。レンさんは私を愛してる。彼もただ、私のことを心配していただけだった。」その呟きが、胸の奥に小さな勇気を灯した。


冷蔵庫から野菜と肉を取り出した。

彼に食べてもらいたい――そう思った瞬間、作る料理は決まっていた。

肉じゃが。


レンが好きな、家庭の温かさを思い出させる味。


じゃがいもを剥き、人参を切る。トントントン……包丁の音が、静かな旋律となって部屋に響く。煮込む鍋から漂う香りは、懐かしい「家」の匂いであり、私の祈りの形だった。味見をして、思わず笑みがこぼれる。「うん、美味しい。」


時計を見ると、午後八時。


出来上がった肉じゃがを弁当箱に詰める。ご飯と、赤く輝くトマトをひとつ添えた。小さく折った手紙をそっと袋に忍ばせ、包みを丁寧に整える。まるで贈り物のように。


その足で彼のアパートへ向かう。


――電話はしない。拒絶する言葉を聞きたくない。ただ、伝えたい。分かっていると。まだ諦めていないと。


彼の部屋の前に弁当を置き、袋に手を添えて小さく囁いた。「レンさん……どうか、食べてください。元気でいてね。」


振り返り、静かにその場を離れる。胸の奥に宿った希望は小さいけれど、確かに私を前に進ませていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


手紙と涙----


その晩、レンはアパートに戻ってきた。辛い一日を終え、言いようのない疲労と孤独感が、彼の肩に重くのしかかっていた。


だが、彼の足は玄関の前で止まった。


そこには、小さな紙袋が置いてあった。


彼は周囲を見渡したが、誰もいなかった。震える手でその袋を手に取る。中から漂う、温かく、懐かしい家の匂いに、彼の胸は締め付けられた。


中から小さな手紙を取り出し、そっと広げた。


「レンさんへ


夕飯にしてもらえたら、嬉しいです。

昨日はごめんなさい。私が軽率で、全部、私のせいです。

でも、レンさんが怒った時、私、嫌な気持ちにはなりませんでした。

むしろ、私が何か失敗した時に、母が怒ってくれたことを思い出したんです…

…きっと、レンさんは私のことを心配して、怒ってくれたんですよね。


だから、たとえ今は会わない方がいいって言われても、私は諦めません。

少し時間がかかっても、また、会いに行きます。

ふふ。母や祖母にも、よくそう言われたんです。

『食べ物に八つ当たりしちゃいけない。悪い癖よ。』


だから、私に怒って。それは平気だから。

でも、ご飯には怒らないで。食べて、休んで。


あなたの人生より――ヒカリ」


---


その言葉は、まっすぐに彼の胸に届いた。どの行も、彼女の愛情と勘違い、そして揺るぎない決意に満ちていた。


「…ヒカリ。」


彼の声は震え、目に涙が溢れ、手紙の上にぽつりぽつりと落ちた。


「怒ってなんかいなかった。どうしたら、こんなこと言えるんだ…いや、言いたくない。どうして…どうして君の無垢な心を、こんな残酷な真実で苦しめられるだろうか…」


彼は自分の胸に手を置き、苦しそうにうつむいた。


「君には、幸せになってほしい。」


それは、誰にも届かない祈りであり、決して彼女に伝えることのできない告白だった。


---


レンは部屋に入り、弁当をテーブルに置いた。蓋を開けると、温かな湯気が立ち上り、彩り豊かな肉じゃがが現れた。


一口食べると、優しい甘さと出汁の香りが、口いっぱいに広がった。


「…いつもの、味だ。美味しい。」


微笑みながらも、彼の頬を涙がとめどなく伝い落ちた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


(彼は食べた。

彼女が真実を知らずに作った、愛のこもった一食を。

ヒカリは、彼が自分に怒っていると信じていた。

しかし実際は、彼は自分自身に怒っていた。

そして、抗えない運命に。


彼は彼女を遠ざけるために言葉の壁を築いた。

だが、彼女はその壁に、小さな手作りの橋をかけた。


彼女は知らぬまま戦っている。

彼は既に敗北を受け入れた戦いを。


彼は別れを言い、彼女はそれを拒んだ。

二人は互いを愛し合いながら、届かぬ空白の中で、悲しい矛盾の愛を生きていた。)


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