第13話 思い出が結びつく時

でも——

その言葉は、心の奥に留まったままだった。


まだ私は、誰かを愛することができるのか分からない。

信じる力が、自分の中にあるのかも分からなかった。


それでも——

今は、少しだけ願いたいと思った。


私は黙って座りながら、レンに手渡したばかりの器から立ちのぼる湯気を見つめていた。

味噌と野菜の香りが、部屋の中にほんのりと残っている。

ただ温かい食事を持ってきただけ——それだけのことなのに、胸の奥がずっと震えていた。


レンは最後の一口を食べ終えると、満足そうに息を吐き、もたれかかった。


「わあ……すごく美味しかった」

彼は柔らかくて輝くような笑顔でそう言った。

「ありがとう、ひかり。愛情がいっぱい詰まった温かいご飯を、僕のために作ってくれて」


私は顔をそらし、頬が熱くなるのを感じた。


「へ、変なこと言わないでよ……」

小さな声で呟いた。

「ただ……まだ体調がちゃんと戻ってないかと思って…」


レンはくすっと笑って、手で頬を支えながらこちらを見た。


「そっか……そうなんだ?」

からかうように言ってくる。


私はまつげ越しに彼をちらっと見て、小さくうなずいた。

レンはそのまま、あたたかく微笑んだ。そして少しの沈黙のあと、ゆっくりと立ち上がった。


「見せたいものがあるんだ」


そう言って、レンは部屋の隅へ歩いて行き、木の箱を持ち帰ってきた。

丁寧に蓋を開けると、そこから一枚の絵を取り出した。


「これ…父さんの作品なんだ」


私は思わず身を乗り出した。

そしてその瞬間、息を呑んだ。


三日月…あの星たち…優しく描かれた筆の跡…。


「こ、これ…お父さんが描いたの?」

目を逸らせずに尋ねた。


レンは静かに頷いた。


私の指は勝手に動き、そっとキャンバスに触れた。

温もり…懐かしさ…。


「この絵……うちにあるのと同じ」

私はささやいた。


「私がポーチに刺繍したあのデザイン…これが元だった。小さい頃からずっと見てきたの。悲しいときも、怒ったときも…この絵を見ると安心できた。お父さんがそばにいる気がして」



私は圧倒されながら、そっと顔を上げた。


「お母さんがね、これは…お父さんの大切な友達から贈られたって言ってたの」


レンの表情がやわらかくなり、静かにうなずいた。


「うん…その通りだよ。僕の父さんと君の父さん——すごく仲が良かった。大学の頃からずっと、親友だったんだ」


レンは私の隣に座り、絵を見つめながら話し始めた。


「父さんがね…一時期、本当に大変だったんだ。借金を抱えて、絵を描き続けることすら迷ってた時期があって。でもそのとき、君のお父さんが助けてくれたんだ。静かに、見返りも求めずに。ただ…信じてくれた」


私は驚いて、目を見開いた。


「父さんが言ってたよ。『あの人に救われた』って。それでね、お礼として、父さんが一番大切にしていた作品を贈ったんだ。それが…この絵」


胸が、ぎゅっと締めつけられた。こんなにも長い間…私、何も知らなかった——。


レンは静かに続けた。


「僕の父はいつも君のお父さんを恋しがっていたよ。大学時代の古い写真を見ては泣いていたよ」


私は目の前がぼやけていくのを感じた。


ゆっくりと、レンは箱の中に手を入れ、折りたたまれた一枚の写真を取り出した。

そこには、肩を組み合って笑い合う若いふたりの姿があった。


そのうちの一人は——


「……お父さん」

私はそっとつぶやいた。


涙が止めどなく流れ落ちた。


レンの表情がやさしくなり、彼はそっと指先で私の涙を拭った。


「君が泣いてるのを見るのがつらいんだ……ひかり」

彼は静かにそう言った。声が少しだけ震えていた。

「本当に……見ていられないんだ」


私は驚いて彼を見つめた。


ひかり、みんなに愛されて、幸せになってほしい。


「たぶん……君のお父さんも、おばあちゃん、お母さんも、そして僕も、

みんな同じことを願ってるんだ。

やさしく生きて、無条件に愛されたいって。」


彼の言葉は、私の心の奥深くに突き刺さった。

まるで種のように、壊れた心の隙間に静かに根を張っていく。


そして私は思った——


どうして私は彼に出会ったの?

どうして彼の言葉は、ずっと私の心が求めていたもののように響くの?


もしかして……これは偶然なんかじゃない。

きっと、運命。


もう一度、私は絵に目を落とした。

そっと指先で角に触れる。感触、重み——全部が懐かしい。


私のポーチ……あの刺繍のデザインは、記憶からだった。

子どもの頃の、理由もわからないぬくもりから。

それが彼のお父さんの作品だったなんて。


私たちの父親は——優しさで繋がっていた。


私たちの心も……たとえ痛みの中でも、出会う運命だったのかもしれない。


レンが私を見つめる。声がかすかに震えていた。

「生きてほしい。


喜んで生きてほしい。」


私は言葉が出なかった。

心の奥から、波のように溢れる感情が、声を飲み込んでいく。


でも——


私はそっと絵を箱に戻しながら、胸の中で小さくささやいた。


「……また信じてみたい。

彼となら……もう一度、やってみたい。

しかし、運命はその許可を与えてくれるだろうか。」


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