第7話:まだ、生きてほしいと願ってくれる人がいる。

「人は 行き来するって言うけど、私の場合は…“ただ去っていくだけ”だった。

人生の節目のたびに、誰かを失った。

一歩を踏み出すたびに、何かを奪われた。

世界は止まらないまま、ただ私が倒れるのを見ていた。

誰にも見えない雨雲の下に生まれたみたいに。

笑っても、前を向いても…

結局、いつもひとりだった。」


レンは小さな店の前に立っていた。

シャッターは降り、電気も消え、そこに人の気配はなかった。


眉をひそめ、じっと待ち、見つめても応答なし。


やがて彼は小走りにアパートの方へ向かった。


ドアを一度、二度と叩く。


「…ヒカリ?」


返事はない。声が焦りに変わる。


「ヒカリ!どこにいるんだ?」


ドアは鍵がかかっていなかった。彼は一瞬の逡巡の後、そっとドアを開けた。


中に入ると、彼の胸が凍りついた。


私は床に崩れ落ちるように横たわっていた。

顔は青ざめ、額には汗。

呼吸は弱々しく、身体は冷たかった。


レンは駆け寄り、うつ伏せだった私を抱き起こした。


「ヒカリ!ヒカリ、どうしたんだ?!」


彼が私の額に手を当てると、それはまるで火のように熱かった。


彼はそっと私を布団に寝かせると、毛布をかけ、台所へ走った。

濡らしたタオルを取り、冷たい水を絞ってそっと額にあてた。



目を開けたとき、天井がゆらりと揺れた。

全てが重かった。頭も心臓も、そして胸も。そしてただ、隣に座って見守った

問いかけもせず、ただそっと。


でも部屋は温かくて、

毛布からは薬と、どこか「ほっとする」匂いがした。


ゆっくりと起き上がる。


目の前には、薬と温かい飲み物、濡れたタオルが置いてあった。

台所からは、誰かが料理をしている音がした。


まぶたを数回瞬きして確かめる。

夢じゃない。


レンがコンロに立ち、鍋を静かにかき混ぜていた。

そこに、あの人がいた。まだいる。


胸は、ただの熱じゃない。その奥にある、

罪悪感。恥。困惑。


「目が覚めたんだね」と、レンがそっと言った。

「まだ熱が高いから、無理しないで。」


言葉は震えず、私はただ見つめ返す。


レンはお椀にスープをそそぎ、トレーに並べながら

「ここに座って」と手を差し伸べてくれた。


その手は温かく、しっかりしていた。


彼が湯気の立つスープをすくって、そっと私

私はその音まで聞き取りたくて、静かに息を止めた。


「はい、どうぞ」と、彼が差し出す。


私はそのまま見つめ、言葉を失った。


小さく、でも安心するような笑顔。


「幽霊じゃないよ。ちゃんと人間だよ。そんなふうにじっと見ないで。」

私は目をそらさず、そっとスプーンを受け取った。


口に運ぶと、それは素朴で暖かくて…

知らぬ間に、涙がゆらりとこぼれた。


レンは安堵の息をひとつ漏らした。


「下手でもごめんね。久しぶりに作ったもんで。」


私は首をふる。


そこにあったのは…この数週間で一番“ほっとする味”だった。

食べ終えた後、私は棚の上にあった母の写真を手に取った。


涙が…また、何の前触れもなくこぼれた。


声を上げることもなかった。

泣き叫ぶこともなかった。


ただ、静かに。

時間に閉じ込められた笑顔を見つめながら、頬を伝って落ちていく涙。


レンはその様子を見ていた。


でも、何も言わなかった。

邪魔もしなかった。


ただ、静かに私を見守っていた。


その目には…私と同じ、ぽっかり空いたような悲しみがあった。

まるで、彼もわかっているように。


長い沈黙の後、彼はゆっくりと立ち上がった。


「薬、まだ全部揃ってないから…買ってくるね。」


私は何も返さなかった。


彼は玄関の前で立ち止まり、振り返らずにこう言った。


「…少し休んで。お願いだから、どこにも行かないで。」


カチッという音とともにドアが閉まった。


また、静寂が部屋を包んだ。


私は写真を見つめ続けた。


優しい目。

あたたかさ。

強さ。


唇が震えた。


そして、突然——壊れた。


「……ママぁ……」


写真に顔を埋めて泣いた。


壊れるように、子どもみたいに。

嵐の中に置き去りにされたような、叫び声にも似た嗚咽。


その頃、ドアの向こうで——

レンは立ち止まっていた。


私の泣き声が、彼の耳にも届いていた。


彼は、自分の手に持っていたバッグをぎゅっと握りしめた。

目を伏せて、静かに息をつく。


そして歩き出した——

胸の奥に、私と同じ痛みを抱えて。



レンは薬局で薬を買い、いくつかの食材も手に入れた。

彼は帰り道、静かな路地にある小さな画材店の前でふと立ち止まった


軒先にはビニールカバーに守られた、**手作りの風鈴**がいくつも並んでいた。


その中のひとつが、彼の目に留まった。

シンプルなガラスの風鈴。


淡い三日月と、\*\*勿忘草(わすれなぐさ)\*\*の青い花が優しく描かれていた。


どこか静かで、少し寂しげで…それでもとても綺麗だった。


それは、私が描いたスケッチの模様にどこか似ているように見えた。


レンはそっと手に取り、風に揺れる音を耳にした。


チリン――


その音は、心の奥の何かを震わせた。


うまく言葉にはできなかったが、その音は、彼が深く愛した誰かの記憶をそっと呼び起こした。


説明のいらない、あの沈黙の時間。


彼の心には、痛みが積もっていった。


彼は静かに風鈴を買い、丁寧に袋へとしまった。


そして彼が一歩踏み出すたびに、風鈴がやさしく鳴った。

まるで――


> 「ひとりじゃないよ。」


と、風が優しく語りかけているように。



私は窓の外をじっと見つめていた。


母の写真を胸に抱きしめながら、何も言わず、ただ空を眺めていた。


レンが玄関を静かに開けて戻ってくる。


「ただいま。」


彼はバッグをテーブルの上に置いて、私の方へ歩いてきた。


私は彼を見た。


でも、彼の目を見られなくて、小さな声で言った。


「来てくれたの……」


「でも、どうして……?」


「あなたは、私のことなんて何も知らないのに……」


「どうして、ここまでしてくれるの?」


声は震え、胸の奥に溜まった不安が少しずつ溢れていく。


「私は生まれたときから悲しみに包まれてた。」


「笑っても、努力しても、結局すべて失っていく……」


「あなたにまで、私のことで時間を無駄にしてほしくない……」


レンはしばらく黙っていた。


そして彼は、ゆっくりと私の手を握った。


私は驚いて、彼を見た。


彼の手は、優しく、でも確かにそこにあった。


「君は……僕にとって、大切な存在だから。」


私の目が揺れた。


「……大切?」


「なんで……?」


レンは彼女をまっすぐに見つめて、静かに言った。


「悲しみに生まれることは、自分では選べないかもしれない。」


「でも……悲しみの中で死ぬかどうかは、自分で選べる。」


「君には……それを変える力がある。」


そして、言葉を重ねた。


「……僕は、君が笑うのを見たい。」


「君が、生きている意味をまた感じられるように……」


私は、言葉を失った。


レンの目に浮かんだ想いは、どこまでも真剣だった。


沈黙のあと、レンの声が低く、けれど確かに響いた。


「ヒカリ…」


「あなたが苦しむ姿は、もう見ていられない」


「なぜなら——」


「……あなたを、愛しているから」


私はその言葉を聞いた瞬間、目を大きく見開いた。


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


そして……ゆっくりと動き出した。



つづく


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