第六話:手放さなかった手
――時間はすべてを癒すっていうけど、
わたしの人生は、
傷の連なりでしかなかった――癒える暇もなく。
父が亡くなったとき――わたしはまだ子どもだった。
母が写真立てをぎゅっと握って、
泣きながらわたしをなだめた夜を覚えている。
そして、おばあちゃん。
わたしの太陽であり、糸であり、温もりだった。
──消えた。
一瞬で。
そして今、母も。
愛する人ほど奪われる理由なんて、ないのに。
息をすれば、世界がわたしから酸素を奪っていく。
何かを積み上げようとすると、すぐに足元が崩れる。
わたしは、死にたかったわけじゃない。
ただ…愛されることのない世界で、生きていく気力が残らなかった。
そのとき──
──手が、握った。
その手は、ただ──しっかりと握っていた。
荒々しくはない。
強引でもない。
でも――“そこにいる”ことを伝えてくるような温かさ。
――「離して」
静かに、けれど確かにわたしは叫んだ。
「なんで止めるの? 誰だよ?!」
振り返ると――
あの少年がいた。
あの静かな目をした男の子。
ポーチを返してくれた人。
スケッチブックをくれた人。
彼の服は雨で濡れ、髪は顔に張りついていた。
でも──その瞳に驚きはなかった。
あったのは、ただ…深い哀しみだけだった。
「どうして?」
かすれた声で言った。ガラスのようにひび割れる声で。
「どうして止めたの?あなたに、私を止める権利なんてあるの?」
彼はまばたきをした。驚いた様子ではなく、まるで——それを予想していたかのように。
「止めたんじゃないよ。」
彼は静かに言った。
「ただ……君を落とせなかった。」
私は泣き崩れた。
汚くて、壊れたような、そんな泣き方だった。
「もう、誰もいないの……!」
「誰も、私のそばに……!」
「なのに……どうして?どうして、あなたが気にするの?!」
彼は、まるでこの痛みを知っているかのように、じっと私を見つめていた。
そして、彼の声がまた聞こえた。
「だったら……僕のために生きて。」
私は目を見開いた。
風の音が止んだように感じた。
「……え?」と、かすれた声で聞き返した。
彼はもう一度言った。
それは恋の言葉じゃなかった。
ただ——本当に、まっすぐな気持ちだった。
彼の声には「お願い」なんて言葉はなかったけれど、
その声は確かに、静かに懇願していた。
家にどうやって帰ったのか、覚えていない。
「うん」と頷いたかどうかすらも。
気づいたときには、
私はアパートの床に座っていた。
全身びしょ濡れで、震えながら。
彼は、そこにいた。
何も言わず、詮索もせず。
ただ、タオルを手渡し、
そしてコップに注がれた水を差し出してくれた。
私は、それを受け取らなかった。
ただ、床を見つめていた。
「なんで……私を追いかけてきたの?」
「なんで……私の名前、知ってるの?」私はぼそっとつぶやいた。
「まさか…変な守護天使ってわけじゃないよね?」
彼は笑わなかった。
驚きもせず、ただ少し離れた場所に座ったまま、黙っていた。
その沈黙は……言葉よりも、少し安心できた。
「この気持ちが、嫌なの……」私はささやくように言った。
「この空っぽな感じ。
みんなを失ってばかりで……
いつもちゃんと、さよならを言えない。」
声が震えた。
「まだ、失う準備なんてできてなかったのに。
ママは、今でも変な形のキャラ弁を作ってくれて、
毎朝、私のおでこにキスしてくれて、
縫い物をしながら、昔の歌を口ずさんでたのに……」
「全部、私のために。私の未来のために。」
喉の奥が、詰まったように苦しくなった。
「なのに……もう、いないんだよ。」
返事はなかった。
でも彼はそっと近づき、
優しく私の肩にタオルをかけてくれた。
その手のぬくもりが……
胸の奥に、なにかを壊した。
私はまた、泣き出した。
でも今度は、彼は目をそらさなかった。
泣かせてくれた。
声がかすれるまで。
拳が震えなくなるまで。
テーブルにもたれて、魂の抜けた人形みたいになるまで。
「助けてくれたのは、あなただったんだね……」
私はようやくそう口にした。
「でも……まだ、あなたの名前も知らない。」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げて、こう言った。
「蓮(れん)……」
「俺の名前は、蓮。」
私はその名前を、夢の中で聞いたみたいに、そっと繰り返した。
「どうして……あの橋にいたの?」
「どうして……いつもこんなふうに現れるの?」
彼は答えず、静かに窓の外に視線を向けた。
ガラスに打ちつける雨が、過去の記憶みたいに流れていた。
そして、低い声でつぶやいた。
「……俺も知ってるから。」
「居場所なんて、どこにもないって思う気持ちを。」
長い沈黙が流れた。
私は壁にもたれかかりながら、疲れきっていて、体の芯まで冷えていた。
「じゃあ……私たち、ただの壊れた人間同士ってこと?」
弱々しい笑みを浮かべながらそう言った。
彼は答えなかった。
でもふと見ると、彼の視線は棚のほうに向いていた。
そこに置かれた、あの“月のポーチ”を見つめていた。
彼の目が、少しだけ優しくなった。
そして次の瞬間、彼は少し不思議なことを言った。
そのポーチは……
生きる希望をくれたんだ。
私は瞬きをした。
「……どういう意味?」
彼は何も答えなかった。
ただ静かに立ち上がって、ドアの方へ歩き出す。
「また会おう、ひかり。」
そして――
彼は去っていった。
つづく…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます