幕間1

 少し昔の話だ。

 私の家は家族仲が悪い。

 両親はどうして離婚しないのかといつも不思議に思う。

 子供である私も父親とも母親ともお世辞でも仲が良いとは言えない。

 はっきり言えば悪い。

 母親との不仲についてはいつか別の機会に話すとして、今回は父親のことについて話そう。


 私の父親はありていにいえば暴力をふるう人だった。

 肉体的な暴力も言葉による暴力も両方。

 ふるわれた拳の痛みを、放たれた言葉のひとつひとつを今でもはっきりと覚えている。

 彼の言い分を一言で表すとこうだった。


「誰の金で生活していると思っているんだ」

 だから彼は何をしてもいいのだとそう確信しているかのような表情だった。

 子供への暴力も妻への暴力も当然の権利だと、養ってやっているのは自分なんだから自分にはそいつらを好きにする権利があるんだと、そう言わんばかりだった。


 子供心に無茶苦茶だと思った覚えがある。

 確かに仕事をしているのは父親だけだったけれど、家事全般は母親が担当している。

 決して母親に好意的ではない私ではあったけれど、その役割分担を無視して自分だけが働いているかのように言い、他人の働きを認めないというのは理不尽だと感じたものだ。


 私についてはなおひどいと思う。

 子供にどうしろというのだ。

 働いて稼げというのか。

 働いていないならなにを言ってもいいというのか。

 面と向かって「お前は失敗作だ」と言われたことがあるが、私の方こそ誰が生んでくれと頼んだ、といいたいところである。

 そんなことばかりあったから高校生になった私がすぐにアルバイトをはじめたのも自然の成り行きというものだっただろう。


 働かせてもらったのは顔見知りの近所のパン屋だったので仕事自体はそれほど厳しくなかった。

 私の入学したのは定時制高校の昼間部で午前の授業が終われば時間に余裕があったし、アルバイトの内容もそこまで厳しくはない。

 なんなら売れ残りのパンなんかももらって帰れて助かったくらいだ。

 そんな生活が二週間ばかり続き、四月が終わろうかというころだった。

 問題が起こったのは……。


 高校は昼間部なので昼には終わる。

 一度家に帰って昼食を食べ、バイトに向かうのがそのころの日課だった。

 帰宅した時、家は異様な雰囲気に包まれていた。

 音は立てないように気を付けながら家に入る。

 母親は不在で、父親は不機嫌そうに眉をひそめている。

 だいたいいつものことであるといえばそうかもしれない。

 ただこの日はいつも以上に不機嫌そうだった。

 父親は帰宅した私を見ると開口一番に言った。


「もうあのパン屋にはいかなくていいぞ」

 明らかに苛ついた口調だった。

 それはいつものことだが、眼もギラギラとしていて何か屈辱をこらえているかのようだ。


「お前が貰ってきたパンがあっただろう。

 あれが案外上手かったからさっきまた貰いに行ったんだ。

 そうしたらあいつら断りやがった」

「貰いに行ったってそんなの無理に決まってます。

 あれはたまたま売れ残ったから貰えただけで……、商品をただで貰えるわけがないでしょう」


 そのぐらいのこともわからないのかこの人は。

 父親は面倒くさそうに手を振ると重ねて言う。

「挙句に迷惑だからお帰り下さいと来たもんだ。

 何様のつもりだあいつらは」


 怒りと屈辱感で息が詰まりそうだった。

 あのパン屋は優しい老夫婦が経営していて私も子供のころからよく行っていた。

 正直こんな父親よりもよっぽど親しみを感じていたぐらいだ。

 気心も知れていたし、人手も足りないと言っていたので働かせてもらったのだがこんな結果になってしまうなんて……・。


「子供のアルバイト先に迷惑を掛けるなよ。

 このくそ親父」

「うるさい。誰の金で生活していると思っているんだ」


 ついつい言葉が荒くなってしまったのは失敗したと思う。

 頭に血がのぼってしまったせいか、その後の記憶はあいまいだ。

 父親が腕を振り上げたことはかろうじて覚えている。

 気が付いたらお腹に鈍い痛みを抱えて布団の中で丸まっていた。


 結局私はその後パン屋でのアルバイトを断念せざるを得なかった。

 父親が迷惑を掛けたし、これからも迷惑を掛けるであろうことを考えると続けることは難しかった。

 やめると伝えたときのあの優しかったはずの老夫婦の安心したような表情を思い浮かべるたびに胸が痛む。

 肩の力が抜けた様子で、形だけの引き止めすらもなかった。

 私はもはや厄介者だったのだ。


 結局この一件の後私はアルバイト自体を断念せざるを得なかった。

 父親からの干渉に恐怖したのだ。

 この人は本当にパンが欲しかったのだろうか。

 ただ単に私から仕事を奪いたかっただけではないのだろうか。

 自分の優位な立場を確固たるものとするために……。

 その思いを捨てきれなかったのだ。

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