大江戸ぱっちん物語
Hibiki Moriyama
まくら ──包むってのは
包むってのは、ただ隠すことじゃござんせん。
守るためだけでも、清めるためだけでもない。
包もうとする──それはつまり、そいつの〝覚悟〟のかたちってやつで。
時は文化十四年──一八一七年。
徳川家斉公の世も深まり、戦の音も飢えの声もすっかり遠ざかった江戸の町。路地には〝粋〟と〝いなせ〟が行き交い、三味線の音に提灯の灯が寄り添う宵もある。
とある不器用な男と女、粋と情のすき間に包まれた、とおの噺──どうぞ、ひと息ついてご覧なさいまし。
浅草観音裏、裏長屋の井戸端では、女たちが洗い張りの手を休め、世間話に花を咲かせている。魚屋の若い衆が鰯を片手に町娘を口説いては、きっぱり断られるのも日常茶飯。医者の説法より、隣の婆ぁの与太話のほうが効き目がある、なんてぇ世の中だ。
病と性と笑いが一つにまじって、人が息づいていたこの頃。夜ともなれば、町の男どもは吉原へと足を向ける。香の煙と琴の音、その奥に夢と毒とがまじり合う世界。遊女たちは芸を磨き、病を抱えながらも男たちの〝理想〟として灯りの奥に咲いていた。
そんな江戸の片隅、ひとり──「穢れたくねぇ」と願う男が、黙々と紙を煮ておりました。
柿渋の匂いが裏長屋の朝を満たす。道具屋「弥七屋」の三代目・弥吉は、手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら、干した和紙の乾き具合をじっと見つめている。脇の火鉢では、柿渋を煮立てる鍋が、ことりことりと音を立てていた。
「……まだ野暮だなァ」
独り言とも、誰かへの毒づきともつかぬ声。和紙に塗り重ねた柿渋が、どうにも〝品〟に欠ける。張りも艶も、まだ道半ば。道具は美しさもまた機能、というのがこの男の持論だ。
「兄さん、また朝っぱらから変なもん煮てるー! 」
通りからガキんちょの声。いやに耳ざとい。
「やきちのじいちゃん、なにしてんだ、くっせえー! 」
「……誰がじいちゃんだ」
返事はするが、手は止めない。塗っては干し、干しては塗る。繰り返すこと十度、まるで仏像でも彫るように。
そこへ、のっそりと覗きこむ影がひとつ。
「おう、まだ煮てんのかい、弥吉。渋っくれた朝だなァ」
町医者の長兵衛。昼から酒臭く、夜には人の命を救う男。飄々とした中年は、店に入るなり棚の小瓶を勝手に手に取った。
「また無銭で持ってく気か」
「当然だろ? 医は仁術、銭は飲み代よ、なァ? 」
弥吉は渋面のまま、結局瓶を渡す。昔からこうだ。変わり者同士、不思議な信で結ばれている。
「それで、お前さん、まだ春にゃ顔出してねぇのかい」
「春ぁ来てらァな。桜だって咲いてやがる」
「そっちじゃねぇ。……春だよ、〝春〟」
ぽんと肩を叩かれた弥吉は、一瞬だけ手を止めた。視線は、浅草の空の向こう──北の吉原。
あの大門の奥には、どんな女たちがいるのか。〝商品〟としての女。〝穢れ〟の象徴とされた瘡毒。その中に、〝春〟という名のひとりの人間が──まだ、弥吉の知らぬ誰かが──いるのかもしれない。
「……野暮ってぇのは、嫌いじゃ」
呟きは、紙の乾く音にかき消された。
この男、三十七にしてまだ女を抱いたことがない。それが〝粋〟か〝阿呆〟かは、他人の評に任せよう。だが、この日を境に、〝春〟はこの男の季節になる。
春が、包まれて咲く物語が、いま、始まろうとしていた。
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