第17話 新しい始まり



月曜日の朝。


僕は、いつもより早く教室に着いた。


窓から差し込む朝日が、机を金色に染めている。あの屋上の告白から、まだ二日しか経っていないなんて信じられない。


「おはよう、陽太くん」


振り返ると、そこに詩織がいた。


制服姿で、いつもの席に座って、いつもの笑顔で。


でも、それが奇跡だということを、僕は知っている。


「おはよう、詩織」


僕は、彼女の隣の席に座る。手を伸ばせば届く距離。この当たり前が、どれだけ尊いことか。


詩織の左手薬指で、青いインクの跡が朝日を受けて輝いている。僕のと、同じように。


「みんな、覚えてるかな?」


詩織が、少し不安そうに呟く。


「大丈夫だよ」


僕は微笑む。


「だって——」


「詩織ー!」


教室のドアが勢いよく開いて、美咲が飛び込んでくる。


「おはよう! 元気? ちゃんと実体化してる?」


美咲は詩織の頬をつつく。


「ちょっと、美咲ちゃん!」


詩織が頬を膨らませる。その仕草が可愛くて、僕は思わず笑ってしまう。


「よかったぁ。本当にいるんだ」


美咲が安堵の息をつく。


続いて、修平も入ってくる。


「お、いるじゃん。おはよう、詩織」


「おはよう、修平くん」


クラスメイトが次々と登校してくる。みんな、詩織に普通に挨拶していく。


「おはよう、詩織ちゃん」


「宿題やった?」


「今日の体育、一緒に組もう」


まるで、詩織がずっとここにいたみたいに。


いや、みんなの記憶の中では、本当にずっといたのかもしれない。


「すごい……」


詩織の目に、また涙が浮かぶ。でも今度は、嬉しい涙だ。


朝のホームルームで、担任の先生が驚くべき発表をした。


「えー、皆さんに報告があります。学園の伝統である『告白権』についてですが、生徒会での協議の結果、少し rules が変更されることになりました」


教室がざわつく。


「今までは各学年一人ずつでしたが、今後は各学年三人まで増えることになりました。より多くの生徒に、チャンスを与えるためです」


「マジで!?」


「やったー!」


歓声が上がる中、先生は続ける。


「ただし、相手を大切に思う気持ちは変わりません。軽い気持ちで使わないように」


僕と詩織は、顔を見合わせる。


きっと、僕たちのことがきっかけになったんだろう。


昼休み、屋上。


僕と詩織は、あの告白の場所でお弁当を食べていた。


「懐かしいね」


詩織が、柵の向こうの景色を眺める。


「まだ二日前なのに」


僕は苦笑する。


「でも、すごく昔のことみたいに感じる」


詩織が振り返る。その笑顔が、眩しい。


「ねえ、陽太くん」


「ん?」


「これから、どんなことがしたい?」


僕は少し考えて、答える。


「普通のこと。一緒に登校して、一緒に勉強して、一緒に帰る。休みの日はデートして、時には喧嘩もして、でも仲直りして」


「普通、かぁ」


詩織が笑う。


「でも、それが一番幸せかも」


僕は頷く。


失いかけたからこそ、当たり前の日常が愛おしい。


「あ、でも一つだけ」


僕は付け加える。


「写真、撮らせて。たくさん」


「もう、また?」


詩織が頬を赤らめる。


「だって、もう二度と君を忘れたくないから」


「忘れないよ」


詩織が、僕の手に自分の手を重ねる。


「この青いインクがある限り、ずっと」


温かい手の温もりが、じんわりと伝わってくる。


放課後、生徒会室。


冬華先輩に呼ばれて、僕たちは訪れていた。


「告白権の相談役をやってみない?」


先輩の提案に、僕たちは顔を見合わせる。


「相談役?」


「そう。新しく告白権を得た生徒たちの相談に乗ってあげてほしいの」


冬華先輩は、優しく微笑む。


「あなたたちなら、告白の大切さも、失敗の怖さも、成功の喜びも、全部知ってるでしょう?」


確かに、そうかもしれない。


「でも、僕たちなんかが……」


「いいと思う」


詩織が、僕の言葉を遮る。


「私たちみたいに、後悔する人を減らせるなら」


僕は、詩織の横顔を見つめる。


彼女の瞳には、強い決意が宿っていた。


「……わかった。やってみる」


冬華先輩が、満足そうに頷く。


「ありがとう。きっと、いい先輩になれるわ」


夕方、中庭の桜の木の下。


刹那が、そこに立っていた。


「元気そうだな、詩織」


「刹那くん……」


詩織が、少し寂しそうに微笑む。


「転校、するんだって?」


「ああ。もう、ここにいる理由もないしな」


刹那は、空を見上げる。


「でも、安心した。お前が幸せそうで」


「刹那くん、ありがとう」


詩織が頭を下げる。


「助けてくれて、本当に」


「礼なら、そいつに言え」


刹那は、僕を指差す。


「最後に勇気を出したのは、陽太だ」


僕は、照れくさくなって頭を掻く。


「でも、刹那がいなかったら……」


「まあ、そうかもな」


刹那が、珍しく笑う。


「だから、詩織を泣かせたら承知しないぞ」


「泣かせないよ」


僕は、真剣に答える。


「絶対に」


刹那は満足そうに頷いて、歩き出す。


「じゃあな。今度は、普通に遊びに来るよ」


「うん、待ってる!」


詩織が手を振る。


刹那の背中が、夕日の中に消えていく。


詩織が、そっと僕の腕に寄り添う。


「寂しい?」


「ううん。だって、また会えるもの」


彼女は微笑む。


「それに、陽太くんがいるから」


僕は、詩織の頭を優しく撫でる。


幸せって、きっとこういうことなんだと思う。


一週間後。


新しい告白権保持者が発表された。


その中の一人、一年生の女の子が、さっそく相談に来た。


「あの、どうしたらいいかわからなくて……」


おどおどした様子の後輩を見て、僕は去年の自分を思い出す。


「大丈夫。ゆっくり話して」


詩織が優しく声をかける。


「好きな人がいるんです。でも、告白して、もし断られたら……」


「怖いよね」


僕は頷く。


「僕も、すごく怖かった」


「でも、先輩は成功したんですよね?」


後輩の目が、羨ましそうに僕たちを見る。


「一度は失敗したよ」


詩織が言う。


「私、消えかけたもの」


「えっ?」


「でもね、本当に想い合っていれば、きっと大丈夫」


詩織は、自分の薬指を見せる。青いインクが、優しく光っている。


「勇気を出して。後悔しないように」


後輩は、じっと詩織の指を見つめて、そして強く頷いた。


「はい。頑張ってみます!」


その日の帰り道。


僕と詩織は、手を繋いで歩いていた。


「いい先輩になれそう?」


「どうかな」


僕は苦笑する。


「でも、少しでも力になれたら」


「なれるよ」


詩織が、僕の手をぎゅっと握る。


「だって、私たちには経験があるもの」


夕暮れの街を、二人で歩く。


こんな当たり前の風景が、今は何より大切に思える。


「ねえ、陽太くん」


「なに?」


「私たち、これからもずっと一緒だよね?」


僕は立ち止まり、詩織の顔を真っ直ぐ見つめる。


「当たり前じゃないか」


そして、左手の薬指を見せる。


「この青いインクが、証だよ」


詩織も、自分の指を僕の指に重ねる。


二つの青い光が、一つに重なった。


「うん。ずっと一緒」


風が吹いて、桜の花びらが舞う。


まだ春じゃないのに、なぜか花びらが。


きっと、この恋を祝福してくれているんだと思う。


新しい日常が、始まっていく。


告白の勇気が、僕たちに教えてくれた。


本当の想いを伝えることの大切さを。


そして、愛する人と過ごす毎日が、どれだけ尊いかを。


「好きだよ、詩織」


「私も好き。ずっと、ずっと」


青いインクは、消えない。


この想いも、きっと永遠に——。

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