第11話 ノイズの理由と、君にだけ見せたい色

「俺の言葉から、どうして『色』が消えたのか。その理由、知りたくないか?」


夜の講堂。

スポットライトが照らすステージの上で、奏が、静かに私に問いかける。

それは、私がずっと知りたかった、彼の心の、一番深い場所にある扉。

その扉を、彼は、私にだけ開けようとしてくれていた。


ゴクリ、と喉が鳴る。

彼の秘密を、本当の痛みを知ってしまったら、私はどうなるんだろう。

ちゃんと、受け止められるだろうか。


でも、もう迷いはなかった。

私は、彼のすべてを知りたい。

こくり、と、私は言葉にならない返事を、頷きで返した。


「……少し、長くなるけどいいか?」

「うん」


奏は、ステージの端に腰掛けると、ぽつり、ぽつりと、自分の過去を語り始めた。

まるで、古くて、少しだけ壊れてしまったオルゴールを奏でるみたいに。


***


「俺の家は、クラシックの音楽一家なんだ」


彼の話は、そんな一言から始まった。

有名なピアニストの母親に、世界的な指揮者の父親。そして、天才と謳われるバイオリニストの兄。

誰もが羨むような、きらびやかな家族。

でも、奏にとって、そこは息の詰まるような場所だった。


「兄貴は、すごかった。どんな曲も一度聞けば弾きこなす、本物の天才。それに比べて、俺は……」


彼は、自嘲するように笑う。


「母親によく言われたよ。『お前は出来損ないだ』ってね(ノイズ)」


ノイズだらけの言葉。

でも、その奥にある痛みが、ズキッと私の胸を刺した。

お母さんから、そんな言葉を……。しかも、それは「灰色」じゃなく、ノイズ。彼自身、その言葉が嘘であってほしいと、心のどこかで願い続けていたのかもしれない。


「ピアノは好きだった。でも、弾けば弾くほど、兄貴との差を思い知らされるだけだった。俺の世界は、ずっと灰色だったんだ」


そんな彼の、モノクロの世界で、唯一の色彩を与えてくれた存在。

それが、隣の家に住んでいた、一つ年上の幼馴染。


「――白鳥、凛だ」


やっぱり。

二人は、ただの幼馴染なんかじゃなかった。


「凛だけだったんだ。俺のピアノを、何のフィルターも通さずに聴いてくれたのは。『奏のピアノ、好きだな』って、いつも、綺麗な『白』で言ってくれた」


私と同じ、「嘘」と「真実」の色が見える能力。

奏も、昔は持っていたんだ。

凛がくれる、たくさんの「白い言葉」が、彼の心を支えていた。


「去年の文化祭。覚えてるか? あの写真」

「……うん」

「あの時、俺は凛のためにピアノを弾いたんだ。『君に聴かせるためだけに弾く』って約束して。あの日、ステージの上で見た世界は、本当に、色と光で溢れてた」


あのアルバムの中の、幸せそうに笑っていた奏の顔が、目に浮かぶ。

彼の人生で、一番輝いていた瞬間。

でも、その光は、長くは続かなかった。


***


「文化祭が終わって、すべてが変わった」


奏の声が、少しだけ低くなる。


「凛が、急に俺を避けるようになった。『もうピアノはやめて』『あなたのピアノなんて、聞きたくない』って……」


彼の言葉が、ちくり、と私の胸を刺す。

そんなひどいことを、白鳥先輩が?


「彼女の言葉は、全部『灰色』だった。だから、嘘だってわかってた。でも、どうしてそんな嘘をつくのか、わからなかったんだ」


信じていた、たった一人の存在からの、突然の裏切り。

その絶望が、彼の世界を壊してしまった。


「その瞬間、世界から『色』が消えたんだ。白も、灰色も、全部ぐちゃぐちゃのノイズになった。誰の言葉も、信じられなくなった。自分の言葉でさえ、本当か嘘かわからなくなった」


そうか。

だから、彼の言葉は、ずっとノイズだらけだったんだ。

それは、嘘と本当の間で揺れ動く、彼の混乱した心の悲鳴そのものだったんだ。


「後で知ったよ。俺の才能に嫉妬した母親が、白鳥先輩の家に圧力をかけてたんだ。もし俺と関わり続けるなら、白鳥先輩の父親の会社を潰すって。凛は、俺と、俺の家族を守るために、たった一人で嘘をつき続けたんだ」


なんて、悲しいすれ違い。

白鳥先輩も、ずっと一人で戦ってたんだ。

奏を、守るために。


「俺は、誰も守れなかった。凛の嘘も見抜けず、ただ傷ついただけの、無力な子供だった」


そう言って俯いた彼の肩は、小さく震えていた。

私は、どうしようもない衝動に駆られて、彼の隣に座ると、その背中を、そっと撫でた。


「……奏は、一人じゃないよ」


我ながら、ありきたりな言葉しか出てこない。

でも、そう言うしかできなかった。


「私が、いるから」


***


私の言葉に、奏はゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。


「……心」


彼は、私の名前を呼ぶ。


「君と会って、俺の世界に、また少しずつ色が戻ってきたんだ」

「え……?」

「君の『大丈夫』は、本当に大丈夫な色をしてる。君の『頑張る』は、キラキラした色をしてる。君がくれる『白』は、凛がくれた『白』とは違う、もっと温かい、太陽みたいな色をしてるんだ」


彼の言葉が、私の心に、じんわりと染み渡っていく。

私の存在が、彼のモノクロの世界を、少しでも照らせていたのなら。

こんなに嬉しいことはない。


「君の目のおかげで、二つの事件を解決できた。でも、それだけじゃない。君が、俺の隣にいてくれたから、俺はもう一度、人を信じてみようって思えたんだ」


奏は、そっと私の手を取った。

その手は、温かくて、少しだけ震えていた。


「心」


彼が、もう一度、私の名前を呼ぶ。

その声は、もう、ノイズなんかじゃなかった。


「俺の本当の色を、君にだけは見せたい」


そして、彼は、今までで一番優しくて、少し照れたような、最高の顔で、こう言ったんだ。


「好きだ、心(白)」


――白。

完璧な、一点の曇りもない、キラキラと光り輝く、真っ白な言葉。

それは、私の知ってるどんな「白」よりも、綺麗で、尊くて、温かかった。


私の目から、涙が、ぽろぽろと溢れて止まらない。

でも、それは悲しい涙じゃなかった。


「……私も」


私も、ずっと言いたかった言葉を、彼に返す。


「私も、好きだよ、奏くん」


その瞬間、奏の瞳が、驚きに見開かれて、そして、次の瞬間には、くしゃりと、嬉しそうに細められた。


嘘だらけの世界で、私たちは、お互いの、たった一つの真実を見つけた。

ステージの上、スポットライトの下で、二つの影が、ゆっくりと一つに重なっていく。


でも、これがハッピーエンドじゃないことくらい、私たちはお互いにわかっていた。

奏のお母さんのこと。白鳥家のこと。

きっと、私たちの前には、もっと大きな壁が立ちはだかるんだろう。


だけど、もう怖くない。

一人じゃないから。

私の隣には、本当の色を取り戻した、世界で一番大切な人が、いてくれるのだから。


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