第3話 二人だけの秘密の特訓と、初めて見せた優しい笑顔

『何があっても、俺のそばから離れるな。……絶対に、だ』


あのラウンジでの、白月様の切なさを帯びた声が、ずっと耳から離れない。

あれから一夜。私はやっぱり、ほとんど眠れなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、彼の言葉の意味をぐるぐると考えてしまう。


(あれは、偽りの花嫁でいる間のこと? それとも……)

(って、違う違う! なんで私がそんなこと期待してるの!?)


ぶんぶんと頭を振って、曖昧な考えを追い払う。

私たちはあくまで偽物の関係。彼は、面倒な縁談を断るため。私は、学園を追放されないため。それだけのはずなのに。


「……はぁ」

「ちょっと美桜、今日イチ深いため息じゃない?」


支度を終えて寮の談話室へ向かうと、待ち合わせしていた親友の葵が、呆れた顔で腕を組んでいた。


「昨日! あの後どうなったのよ! あの白月様に手首掴まれて連れ去られて! しかも『俺の女だ』宣言まで飛び出して! 学園、もうお祭り騒ぎだよ!?」

「お、お祭り……」

「そうだよ! 『落ちこぼれの星、爆誕!』とか、『シンデレラは実在した!』とか、面白おかしく掲示板に書かれてるんだから!」


(そんなことに……)


葵の言葉に、私の顔は青くなったり赤くなったり。もう感情が大忙しだ。

本当のことを話したい。でも、偽りの婚約だって言ったら、この騒ぎはもっと大きくなるだろうし、何より白月様との契約を破ることになる。


「ご、ごめん、葵……。今はまだ、ちょっと、色々あって……」

「むー……」

葵はぷくっと頬を膨らませたけど、すぐに「ま、いっか!」といつもの笑顔に戻ってくれた。

「あんたが言いたくないなら、無理に聞かないよ。でも! 何かあったら絶対、私に一番に言うこと! いいね?」

「……うん。ありがとう、葵」


親友の優しさが、ズキッとしていた胸に、じんわりと沁みた。



でも、そんな温かい気持ちも、午後の授業が始まった瞬間に凍りついた。

今日の授業は「霊力制御基礎」。

生徒がそれぞれ自分の霊力や妖力を練り上げ、形にして見せるという、私にとっては公開処刑みたいな時間だ。


「はい、ではまず西園寺さん、お手本をお願いします」

「はい、先生」


先生に指名されたのは、あの西園寺撫子様だった。

彼女は優雅に立ち上がると、すっと指先を前に掲げる。


「――舞え、蝶よ」


その瞬間、彼女の指先からキラキラと輝く光の粒子が溢れ出し、それがみるみるうちに何十羽もの美しい蝶の形になった。

光の蝶たちは、教室の中をひらひらと優雅に舞い始める。なんて綺麗なんだろう。霊力が高いって、こういうことなんだ。

教室中から「わぁ……」という感嘆の声が漏れる。


撫子様は、誇らしげに胸を張ると、ちらりと私に視線を送ってきた。

その目は、はっきりとこう言っていた。『あなたに、これができますの?』と。


(……できないよ)


胸の奥が、またちくりと痛む。

その後も、生徒たちは次々と自分の力を披露していく。炎の玉を出したり、水の竜を操ったり。みんな、すごい。

そして、ついに私の番がやってきた。


「……次は、一之瀬さん」


先生に名前を呼ばれた瞬間、教室中の視線が突き刺さる。

好奇と、嘲笑と、侮蔑。空気が、重い。


(大丈夫、大丈夫……)


自分に言い聞かせて、必死に手を前に出す。

お願い、少しでいいから、出てきて。私の霊力。

ぎゅっと目を瞑り、ありったけの力で念じる。でも、私の指先からは、なーんにも出てこない。シーン、と静まり返った教室に、誰かの笑い声が響いた。


「ぷっ、やっぱり何もできないんだ」

「あんなので、本当に白月様のお相手なの?」

「力が釣り合わなすぎるわよねぇ」


やめて。そんな目で見ないで。

顔から火が出るほど恥ずかしい。悔しくて、情けなくて、涙が出そうになる。

俯いた私の目に、自分の惨めな姿が映った気がした。


(私なんて、やっぱり……)


彼の隣にいる資格なんて、これっぽっちもないんだ。


授業が終わった後も、私はどんよりと沈んだ気持ちのまま、一人でとぼとぼと廊下を歩いていた。

葵が心配して声をかけてくれたけど、「一人になりたい」って言ってしまった。ごめんね、葵。


(もう、嫌だな……)


こんな思いをするくらいなら、やっぱり白月様の申し出なんて断るべきだったんだ。

そう思った、その時。


「――いつまで、そんな無様な顔を晒しているつもりだ」


背後から聞こえた、冷たい声。

ビクッとして振り返ると、そこには壁に寄りかかって腕を組む、白月様の姿があった。


「し、白月様……! い、いつからそこに……」

「お前の授業が始まる前からだ」

「ええっ!?」


ってことは、私のあの恥ずかしい姿、全部見られてたってこと!?

うわー、最悪だ! 穴があったら入りたい!


「……見るに堪えん」


彼は心底呆れたようにため息をつくと、私の方へ歩いてきた。

そして、私の目の前で足を止めると、じっと私を見下ろす。


「俺の花嫁が、その程度でどうする」

「だ、だって、私には霊力が……!」

「無いのではない。使い方を知らんだけだ」


え、と顔を上げると、彼は「来い」と短く言って、私に背を向けた。

「少しは使えるようにしてやる。放課後、裏の社の前で待て」


それだけ言うと、彼は私の返事も聞かずに去っていってしまう。

残された私は、ただ呆然と彼の背中を見送ることしかできなかった。


(特訓……してくれるってこと?)


なんで? 私が惨めなのが、彼のプライドを傷つけるから?

……それだけ?



放課後。

私は言われた通り、学園の敷地の奥にある、今はもう使われていない古い神社の前に来ていた。

木々に囲まれたそこは、ひっそりと静まり返っていて、なんだか少しだけ怖い。


「……遅い」


鳥居の影から、ぬっと白月様が現れた。

うわっ、と驚いて飛び上がった私を見て、彼は少しだけ眉をひそめる。


「お前は、俺の気配にすら気づかんのか。これでは話にならんな」

「す、すみません……」

「いい。……こっちへ来い」


彼に促されて、社の本殿の前まで行く。

西日が差し込んで、彼の銀色の髪をキラキラと輝かせていた。


「まず、お前の額の印について説明してやる」

「この、印……」

「これは、ただの契約の証ではない。俺とお前を繋ぐ、妖力の通り道(パス)だ」

「パス……?」


私の頭の上にハテナが浮かんでいるのが見えたのか、彼は「実践した方が早い」と言って、私の前に立った。

そして、すっと彼の綺麗な指が伸びてきて、私の額にそっと触れた。


「――ひゃっ!?」


冷たい指先の感触に、心臓がドキッと跳ねる。

すると、彼の指が触れた場所から、温かい何かが流れ込んでくるのを感じた。ふわっと、体が軽くなるような、不思議な感覚。


「これが、俺の妖力だ。今、お前の体は一時的に俺の力で満たされている。……感覚が、いつもより鋭くなっているはずだ。集中しろ」

「しゅ、集中……」

「そうだ。目を閉じて、自分の中の力を感じろ。俺の妖力を道しるべに、お前自身の眠っている力を呼び覚ますんだ」


言われるがままに、ぎゅっと目を閉じる。

さっきまで感じていた無力感とは違う、体の奥底にある、ほんの小さな、でも確かな温かさ。これが、私の霊力……?


「そうだ。……いいか、俺の真似をしろ」


耳元で、彼の声が囁く。

ハッとして目を開けると、彼の指先に、小さな青い光の蝶が生まれていた。それは、撫子様の華やかな蝶とは違う、静かで、儚げで、でも吸い込まれるように美しい光だった。


「お前も、やってみろ。どんな形でもいい。心に思い描いたものを、指先に集めるんだ」


(私が……できるわけ……)

弱気な心が顔を出す。でも、額に触れている彼の指先から伝わる温かさが、「お前ならできる」と語りかけてくるようだった。


もう一度、目を閉じて集中する。

私が思い描いたのは、学園の庭に咲いていた、あの小さな紫色の花。私みたいに、誰にも気づかれない、名も無い花。


(お願い……!)


指先に、全神経を集中させる。

すると、じんわりと指先が温かくなってきた。


「……そうだ、その感覚だ」


白月様の声に励まされて、さらに意識を集中させる。

ゆっくりと目を開けると――私の指先に、ぽっ、と小さな紫色の光が灯っていた。


「……あ」


それは、まだ花の形にはなっていない、本当に小さな、小さな光の粒。

でも、紛れもなく、私が生み出した光だった。


「できた……! できました、白月様!」


嬉しくて、思わず彼の顔を見上げる。

すると、彼はほんの少しだけ目を見開いて、そして――ほんの、ほんの少しだけ、口の端を上げていた。


「……悪くない」


(わ、笑った……?)


ほんの一瞬の、幻みたいな微笑み。

でも、その瞬間、私の心臓は、今までにないくらい大きな音を立てて「きゅん」と鳴った。

うそでしょ。あの白月様が、笑った。私のために?


「な、何を呆けている。続けるぞ」

「は、はい!」


私の顔が真っ赤になっていることなんてお構いなしに、彼のスパルタ指導は続いた。

最初はただの光の粒だったのが、何度も繰り返すうちに、だんだんと小さな花びらの形になっていく。


「どうして、ここまでしてくれるんですか……?」

特訓の合間に、私はずっと疑問だったことを口にした。

すると、彼はふいっと顔をそむけて、ぶっきらぼうに答える。


「お前があまりに非力だと、俺の『偽りの花嫁』として都合が悪いだけだ」

「……」

「……それに」


彼が、何かを言いよどむ。

「俺のそばにいるなら、自分の身くらい守れるようにならねばな。俺を狙う者は、多い」


その声には、最強のあやかし故の、深い孤独の影が落ちていた。

この人は、ただ冷たいだけじゃない。ずっと一人で、見えない敵と戦ってきたんだ。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。

守られてばかりの私とは、違う。


(私も、強くならなきゃ)


彼が背負うものの、ほんの一部でもいい。いつか、私が彼の隣に立つにふさわしい存在に――。

いや、違う。これは偽りの関係なんだから。

でも。


特訓が終わり、空が茜色に染まる頃。私の指先からは、五枚の花びらを持つ、小さな紫の花の光が、ふわふわと浮かび上がるようになっていた。


「今日はここまでだ」

「あ、ありがとうございました!」

「……礼を言われる筋合いはない」


そう言って、彼は社に背を向けた。

寮へ帰ろうと、私も彼に続いて歩き出す。

すると、不意に白月様が「待て」と私を呼び止めた。


「え?」

振り返ると、彼はもう一度、私の前に立っていた。

そして、夕日に照らされた綺麗な指先が、私の髪に、そっと触れた。


「――っ!?」


ふわっ、と彼の指が髪を梳く。

心臓が、喉から飛び出しそう。


「次の満月の夜、一族の会合がある。お前にも来てもらう」

「え、一族の……」

「いいな、俺から目を離すなよ」


それは、有無を言わせぬ命令。でも、どこか私を守ろうとしてくれているような、不思議な響きがあった。

そして、彼は私の髪から手を離すと、去り際に、ぽつりと言った。


「……今日のところは、よくやった」


それは、今まで聞いた中で、一番優しい声だった。

彼の姿が木々の向こうに消えても、私はその場から動けなかった。

触れられた髪を押さえて、顔はきっと、夕焼けよりも真っ赤になっている。


(……心臓、持たないよ、こんなの!)


優しくされたり、冷たくされたり。

最強で、意地悪な彼のせいで、私の心はもう、ぐちゃぐちゃだ。


でも、指先に灯る、小さな紫色の光の花は、確かに私の希望の光に見えた――。

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