第3話 二人だけの秘密の特訓と、初めて見せた優しい笑顔
『何があっても、俺のそばから離れるな。……絶対に、だ』
あのラウンジでの、白月様の切なさを帯びた声が、ずっと耳から離れない。
あれから一夜。私はやっぱり、ほとんど眠れなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、彼の言葉の意味をぐるぐると考えてしまう。
(あれは、偽りの花嫁でいる間のこと? それとも……)
(って、違う違う! なんで私がそんなこと期待してるの!?)
ぶんぶんと頭を振って、曖昧な考えを追い払う。
私たちはあくまで偽物の関係。彼は、面倒な縁談を断るため。私は、学園を追放されないため。それだけのはずなのに。
「……はぁ」
「ちょっと美桜、今日イチ深いため息じゃない?」
支度を終えて寮の談話室へ向かうと、待ち合わせしていた親友の葵が、呆れた顔で腕を組んでいた。
「昨日! あの後どうなったのよ! あの白月様に手首掴まれて連れ去られて! しかも『俺の女だ』宣言まで飛び出して! 学園、もうお祭り騒ぎだよ!?」
「お、お祭り……」
「そうだよ! 『落ちこぼれの星、爆誕!』とか、『シンデレラは実在した!』とか、面白おかしく掲示板に書かれてるんだから!」
(そんなことに……)
葵の言葉に、私の顔は青くなったり赤くなったり。もう感情が大忙しだ。
本当のことを話したい。でも、偽りの婚約だって言ったら、この騒ぎはもっと大きくなるだろうし、何より白月様との契約を破ることになる。
「ご、ごめん、葵……。今はまだ、ちょっと、色々あって……」
「むー……」
葵はぷくっと頬を膨らませたけど、すぐに「ま、いっか!」といつもの笑顔に戻ってくれた。
「あんたが言いたくないなら、無理に聞かないよ。でも! 何かあったら絶対、私に一番に言うこと! いいね?」
「……うん。ありがとう、葵」
親友の優しさが、ズキッとしていた胸に、じんわりと沁みた。
*
でも、そんな温かい気持ちも、午後の授業が始まった瞬間に凍りついた。
今日の授業は「霊力制御基礎」。
生徒がそれぞれ自分の霊力や妖力を練り上げ、形にして見せるという、私にとっては公開処刑みたいな時間だ。
「はい、ではまず西園寺さん、お手本をお願いします」
「はい、先生」
先生に指名されたのは、あの西園寺撫子様だった。
彼女は優雅に立ち上がると、すっと指先を前に掲げる。
「――舞え、蝶よ」
その瞬間、彼女の指先からキラキラと輝く光の粒子が溢れ出し、それがみるみるうちに何十羽もの美しい蝶の形になった。
光の蝶たちは、教室の中をひらひらと優雅に舞い始める。なんて綺麗なんだろう。霊力が高いって、こういうことなんだ。
教室中から「わぁ……」という感嘆の声が漏れる。
撫子様は、誇らしげに胸を張ると、ちらりと私に視線を送ってきた。
その目は、はっきりとこう言っていた。『あなたに、これができますの?』と。
(……できないよ)
胸の奥が、またちくりと痛む。
その後も、生徒たちは次々と自分の力を披露していく。炎の玉を出したり、水の竜を操ったり。みんな、すごい。
そして、ついに私の番がやってきた。
「……次は、一之瀬さん」
先生に名前を呼ばれた瞬間、教室中の視線が突き刺さる。
好奇と、嘲笑と、侮蔑。空気が、重い。
(大丈夫、大丈夫……)
自分に言い聞かせて、必死に手を前に出す。
お願い、少しでいいから、出てきて。私の霊力。
ぎゅっと目を瞑り、ありったけの力で念じる。でも、私の指先からは、なーんにも出てこない。シーン、と静まり返った教室に、誰かの笑い声が響いた。
「ぷっ、やっぱり何もできないんだ」
「あんなので、本当に白月様のお相手なの?」
「力が釣り合わなすぎるわよねぇ」
やめて。そんな目で見ないで。
顔から火が出るほど恥ずかしい。悔しくて、情けなくて、涙が出そうになる。
俯いた私の目に、自分の惨めな姿が映った気がした。
(私なんて、やっぱり……)
彼の隣にいる資格なんて、これっぽっちもないんだ。
授業が終わった後も、私はどんよりと沈んだ気持ちのまま、一人でとぼとぼと廊下を歩いていた。
葵が心配して声をかけてくれたけど、「一人になりたい」って言ってしまった。ごめんね、葵。
(もう、嫌だな……)
こんな思いをするくらいなら、やっぱり白月様の申し出なんて断るべきだったんだ。
そう思った、その時。
「――いつまで、そんな無様な顔を晒しているつもりだ」
背後から聞こえた、冷たい声。
ビクッとして振り返ると、そこには壁に寄りかかって腕を組む、白月様の姿があった。
「し、白月様……! い、いつからそこに……」
「お前の授業が始まる前からだ」
「ええっ!?」
ってことは、私のあの恥ずかしい姿、全部見られてたってこと!?
うわー、最悪だ! 穴があったら入りたい!
「……見るに堪えん」
彼は心底呆れたようにため息をつくと、私の方へ歩いてきた。
そして、私の目の前で足を止めると、じっと私を見下ろす。
「俺の花嫁が、その程度でどうする」
「だ、だって、私には霊力が……!」
「無いのではない。使い方を知らんだけだ」
え、と顔を上げると、彼は「来い」と短く言って、私に背を向けた。
「少しは使えるようにしてやる。放課後、裏の社の前で待て」
それだけ言うと、彼は私の返事も聞かずに去っていってしまう。
残された私は、ただ呆然と彼の背中を見送ることしかできなかった。
(特訓……してくれるってこと?)
なんで? 私が惨めなのが、彼のプライドを傷つけるから?
……それだけ?
*
放課後。
私は言われた通り、学園の敷地の奥にある、今はもう使われていない古い神社の前に来ていた。
木々に囲まれたそこは、ひっそりと静まり返っていて、なんだか少しだけ怖い。
「……遅い」
鳥居の影から、ぬっと白月様が現れた。
うわっ、と驚いて飛び上がった私を見て、彼は少しだけ眉をひそめる。
「お前は、俺の気配にすら気づかんのか。これでは話にならんな」
「す、すみません……」
「いい。……こっちへ来い」
彼に促されて、社の本殿の前まで行く。
西日が差し込んで、彼の銀色の髪をキラキラと輝かせていた。
「まず、お前の額の印について説明してやる」
「この、印……」
「これは、ただの契約の証ではない。俺とお前を繋ぐ、妖力の通り道(パス)だ」
「パス……?」
私の頭の上にハテナが浮かんでいるのが見えたのか、彼は「実践した方が早い」と言って、私の前に立った。
そして、すっと彼の綺麗な指が伸びてきて、私の額にそっと触れた。
「――ひゃっ!?」
冷たい指先の感触に、心臓がドキッと跳ねる。
すると、彼の指が触れた場所から、温かい何かが流れ込んでくるのを感じた。ふわっと、体が軽くなるような、不思議な感覚。
「これが、俺の妖力だ。今、お前の体は一時的に俺の力で満たされている。……感覚が、いつもより鋭くなっているはずだ。集中しろ」
「しゅ、集中……」
「そうだ。目を閉じて、自分の中の力を感じろ。俺の妖力を道しるべに、お前自身の眠っている力を呼び覚ますんだ」
言われるがままに、ぎゅっと目を閉じる。
さっきまで感じていた無力感とは違う、体の奥底にある、ほんの小さな、でも確かな温かさ。これが、私の霊力……?
「そうだ。……いいか、俺の真似をしろ」
耳元で、彼の声が囁く。
ハッとして目を開けると、彼の指先に、小さな青い光の蝶が生まれていた。それは、撫子様の華やかな蝶とは違う、静かで、儚げで、でも吸い込まれるように美しい光だった。
「お前も、やってみろ。どんな形でもいい。心に思い描いたものを、指先に集めるんだ」
(私が……できるわけ……)
弱気な心が顔を出す。でも、額に触れている彼の指先から伝わる温かさが、「お前ならできる」と語りかけてくるようだった。
もう一度、目を閉じて集中する。
私が思い描いたのは、学園の庭に咲いていた、あの小さな紫色の花。私みたいに、誰にも気づかれない、名も無い花。
(お願い……!)
指先に、全神経を集中させる。
すると、じんわりと指先が温かくなってきた。
「……そうだ、その感覚だ」
白月様の声に励まされて、さらに意識を集中させる。
ゆっくりと目を開けると――私の指先に、ぽっ、と小さな紫色の光が灯っていた。
「……あ」
それは、まだ花の形にはなっていない、本当に小さな、小さな光の粒。
でも、紛れもなく、私が生み出した光だった。
「できた……! できました、白月様!」
嬉しくて、思わず彼の顔を見上げる。
すると、彼はほんの少しだけ目を見開いて、そして――ほんの、ほんの少しだけ、口の端を上げていた。
「……悪くない」
(わ、笑った……?)
ほんの一瞬の、幻みたいな微笑み。
でも、その瞬間、私の心臓は、今までにないくらい大きな音を立てて「きゅん」と鳴った。
うそでしょ。あの白月様が、笑った。私のために?
「な、何を呆けている。続けるぞ」
「は、はい!」
私の顔が真っ赤になっていることなんてお構いなしに、彼のスパルタ指導は続いた。
最初はただの光の粒だったのが、何度も繰り返すうちに、だんだんと小さな花びらの形になっていく。
「どうして、ここまでしてくれるんですか……?」
特訓の合間に、私はずっと疑問だったことを口にした。
すると、彼はふいっと顔をそむけて、ぶっきらぼうに答える。
「お前があまりに非力だと、俺の『偽りの花嫁』として都合が悪いだけだ」
「……」
「……それに」
彼が、何かを言いよどむ。
「俺のそばにいるなら、自分の身くらい守れるようにならねばな。俺を狙う者は、多い」
その声には、最強のあやかし故の、深い孤独の影が落ちていた。
この人は、ただ冷たいだけじゃない。ずっと一人で、見えない敵と戦ってきたんだ。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
守られてばかりの私とは、違う。
(私も、強くならなきゃ)
彼が背負うものの、ほんの一部でもいい。いつか、私が彼の隣に立つにふさわしい存在に――。
いや、違う。これは偽りの関係なんだから。
でも。
特訓が終わり、空が茜色に染まる頃。私の指先からは、五枚の花びらを持つ、小さな紫の花の光が、ふわふわと浮かび上がるようになっていた。
「今日はここまでだ」
「あ、ありがとうございました!」
「……礼を言われる筋合いはない」
そう言って、彼は社に背を向けた。
寮へ帰ろうと、私も彼に続いて歩き出す。
すると、不意に白月様が「待て」と私を呼び止めた。
「え?」
振り返ると、彼はもう一度、私の前に立っていた。
そして、夕日に照らされた綺麗な指先が、私の髪に、そっと触れた。
「――っ!?」
ふわっ、と彼の指が髪を梳く。
心臓が、喉から飛び出しそう。
「次の満月の夜、一族の会合がある。お前にも来てもらう」
「え、一族の……」
「いいな、俺から目を離すなよ」
それは、有無を言わせぬ命令。でも、どこか私を守ろうとしてくれているような、不思議な響きがあった。
そして、彼は私の髪から手を離すと、去り際に、ぽつりと言った。
「……今日のところは、よくやった」
それは、今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
彼の姿が木々の向こうに消えても、私はその場から動けなかった。
触れられた髪を押さえて、顔はきっと、夕焼けよりも真っ赤になっている。
(……心臓、持たないよ、こんなの!)
優しくされたり、冷たくされたり。
最強で、意地悪な彼のせいで、私の心はもう、ぐちゃぐちゃだ。
でも、指先に灯る、小さな紫色の光の花は、確かに私の希望の光に見えた――。
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