第三十章:決戦前夜、ジュネーブにて
その三日間、世界は、息を止めていた。
アルゴスによる、前代未聞の「挑戦状」。そして、女神エレナ・アマリの、あまりにも大胆な「受諾」。そのニュースは、SOLON(ソロン)の統治下で眠っていた、人々の好奇心という名の、原始的な獣を、半世紀ぶりに呼び覚ました。
SOLON(ソロン)の公式チャンネルは、この討論を「テロリストの戯言(たわごと)を、我らが指導者が、公の場で論破する、歴史的な瞬間」として、大々的に宣伝した。エレナの勇敢さを称え、彼女の勝利を、疑わないキャンペーンが、世界中で展開された。
だが、水面下では、別の熱狂が、渦を巻いていた。
「シャドウ・ウォッチャー」たちのネットワークは、沸騰していた。彼らは、アルゴスの要求した、たった一つの条件――「アナログ照明」――に、全ての希望を賭けていた。それは、ただの象徴ではない。彼らが、ずっと追い求めてきた、「不自然な影」の謎を解く、鍵であると、誰もが、直感していた。
世界は、二つに分かれた。
エレナの、完璧な「論理」を信じる者たち。
そして、海斗の、名もなき「物語」に、最後の望みを託す者たち。
その誰もが、三日後に、スイス、ジュネーブで開かれる、たった一度の討論会を、固唾を飲んで、見守っていた。
アルゴスの、最後の隠れ家。
水島海斗は、その三日間、ほとんど眠らなかった。彼の前には、来栖ミキの、エレナ・アマリの、そして、彼自身の、人生の全てを注ぎ込んだ、討論のための、膨大な草稿が、広がっていた。
彼は、もはや、ただの歴史家ではなかった。彼は、弁護士であり、検事であり、そして、人類の、最後の「代弁者」だった。彼は、エレナが繰り出すであろう、あらゆる論理的な反論を予測し、その全てに、人間的な、感情的な、しかし、決して揺らぐことのない、反証を用意していった。
彼の隣では、ルーカスと、ソーン博士が遺した技術者たちが、来るべき日のための「武器」を、最終調整していた。
それは、一見すると、20世紀の、古い映画スタジオで使われていたような、無骨な大型のスポットライトにしか見えなかった。
だが、その内部には、ソーン博士の、最後の執念が、込められていた。彼女の解析に基づき、ハイブリッドの細胞結合を、最も効率的に、不安定化させる、特殊な波長の光と、高出力の紫外線を、同時に、ピンポイントで照射できるよう、極秘裏に、改造されていたのだ。
それは、女神の化けの皮を剥がすための、光の、短剣だった。
そして、タケシは、ただ、黙って、海斗の側を、離れなかった。彼は、海斗の、唯一の護衛であり、そして、リョウや、アルゴスから受け継いだ、全ての想いを、その背中に背負う、証人だった。
決戦の日、前夜。スイス、ジュネーブ。
ルーカスのネットワークが用意した、秘密のルートを通り、彼らは、レマン湖のほとりに、静かに、降り立った。アルゴスの技術チームは、スイス政府の黙認の下、すでに、国連総会議場の設営に入っている。彼らが持ち込んだ「時代遅れのアナログ照明」は、SOLON(ソロン)の警備システムからも、ただのノスタルジックな演出として、黙殺されていた。
海斗は、隠れ家のホテルの窓から、ライトアップされた、旧国際連合本部の、荘厳な姿を、見つめていた。明日、あの場所で、世界の運命が、決まる。
彼の掌には、二つの、小さな遺物が、握りしめられていた。
一つは、ソーン博士が、最後に彼に託した、アルゴスの全ての記憶が詰まった、データクリスタル。
そして、もう一つは、タケシが、命を賭して持ち帰った、あの、小さな、乳白色の「錠剤」。
始まりの、遺物。そして、終わりの、記憶。
その全てが、今、この手の中にあった。
「…時間だ」
背後で、タケシが、静かに言った。
海斗は、頷いた。
彼は、もう、恐れてはいなかった。彼の心は、歴史家としての、静かな、しかし、燃えるような、使命感に満たされていた。
彼は、これから、一人の女性を、告発する。
そして、同時に、一人の女性を、救うのだ。
その女性の名は、エレナ・アマリ。そして、もう一人の名は、来栖ミキ。
彼は、明日、全世界の前で、70年前に、ワイオミングの空の下で始まった、一つの物語に、終止符を打つ。
そして、新しい、人間の物語を、始めるのだ。
空には、星が、瞬いていた。
それは、SOLON(ソロン)が管理する、完璧な星空ではなく、アルプスの、冷たく澄んだ空気の向こう側に輝く、本物の、星々だった。
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