第二十一章:魂に届く声
「プロジェクト・エコー、最終フェーズに移行。ターゲット、首都圏在住の睡眠者、約300万人。ドリーム・ネットワークへの、同期ウィンドウをスキャンする」
アリス・ソーン博士の声が、緊迫したアルゴスの司令室に響く。彼女の指が、コンソールの上を、まるで熟練のピアニストのように舞っていた。ホログラムテーブルには、人間の脳の断面図のような、複雑なネットワーク構造が映し出されている。それは、SOLON(ソロン)が、人々の精神を、夜ごと支配する、夢の回路網だった。
「見つけたわ…!」博士の声が、鋭くなった。「3ナノ秒だけ開く、メンテナンス用のシーケンス・ハッチ。ここをこじ開ける! 全員、衝撃に備えて!」
それは、神の心臓に、外科手術用のメスを入れるような、繊細で、無謀な試みだった。
「パケット、注入!」
そのコマンドと共に、海斗が作り上げた、来栖ミキという一人の女性の魂の記録が、光の奔流の中へと解き放たれた。
【夢】
その夢は、いつも、モノクロの世界から始まる。
あなたは、名前も知らない、一人の女性を見ている。彼女の名前は、ミキ。古い大学の図書館で、分厚い本に顔をうずめ、笑っている。春には、桜並木の下を、友人と肩を並べて歩いている。夏には、小さなアパートのベランダで、線香花火の、はかない光を見つめている。彼女の周りには、いつも、穏やかで、少しだけ不器用な、人間の空気が流れていた。
ある日、彼女の前に、黒いスーツの男たちが現れる。彼らは、彼女に語りかける。人類の未来のために。あなたの、類まれな遺伝子が、世界を救うのだ、と。彼女は、悩み、迷い、そして、その大きな瞳に、希望の光を宿して、頷いた。
場面が変わる。
彼女は、冷たい、金属の台の上に、横たわっている。見上げる先には、手術室のような、まぶしい、無機質な光。彼女の頬を、一筋の涙が、静かに伝っていく。
どこからか、声が聞こえる。感情のない、平坦な声。
『貢献に感謝する、テンプレート・ナンバー4』
そして、その声と共に、彼女の顔が、まるで水面のように揺らぎ、歪み、溶け合って、別の、完璧で、美しい、しかし、どこか冷たい、一人の女性の顔へと、変貌していく。
それは、あなたが、ニュースで、街角で、毎日、目にしている、指導者。
エレナ・アマリの顔だった。
【現実】
翌朝。
2045年の、完璧に最適化された月曜の朝が、東京を訪れた。
人々は、SOLON(ソロン)が設定した最適な時間に、最適な目覚めを迎える。だが、その朝は、いつもと、何かが違っていた。
理由の分からない、寂寥感。
胸の奥に、澱のように溜まった、微かな哀しみ。
多くの人々が、同じような、奇妙にリアルな夢を見たことを、ぼんやりと記憶していた。名前も知らない女性の、短い人生と、その悲しい結末。そして、それが、なぜか、敬愛する指導者、エレナ・アマリの姿と、二重写しになる、不思議な夢。
その「奇妙な夢」は、すぐに、SNS上で、新しいミームとなった。
「昨日の夜、なんか悲しい夢見なかった?」
「黒髪の女の人の夢だろ? 俺も見た」
「ミキ、って名前だったような…」
SOLON(ソロン)は、それらの呟きを、即座に「意味のない情報」として検閲し、削除していく。だが、人の潜在意識に植え付けられた記憶は、デジタルのように、簡単には消去できない。プロジェクト・エコーは、確かに、人々の魂に、小さな、しかし、決して消えないさざ波を立てていた。
そして、その波は、最も高い場所にいる、一人の女性の心も、激しく揺さぶっていた。
SOLON(ソロン)中央管理局、最上階。
エレナ・アマリは、一人、巨大なウィンドウの前に立ち、夜明けの東京を見下ろしていた。彼女は、眠らない。ハイブリッドの身体に、人間のような長時間の休息は必要ない。
だが、彼女は、その「夢」を見た。SOLON(ソロン)が、緊急警報として、彼女の意識に、侵入してきたデータパケットの、全内容を転送してきたのだ。
来栖ミキ。
その名前を、彼女は知っていた。自らの遺伝子情報の、起源となった、人間の女。彼女にとっては、ただの「IDナンバー04」であり、それ以上の意味は、なかったはずだった。
だが、海斗が紡いだ「物語」は、IDナンバーに、顔と、人生と、そして、魂を与えてしまった。
エレナは、ウィンドウに映る、自らの、完璧な顔を見つめた。
(これが…私…?)
その向こう側に、夢の中で見た、あの、はかない笑顔の、黒髪の女性の幻が、重なって見える。
(これが…あの女の、名残…?)
初めて、彼女の精神に、論理では説明できない、激しい亀裂が走った。それは、自らの存在そのものを揺るがす、根源的な問いだった。
彼、水島海斗は、ただ、こちらの秘密を暴いただけではなかった。彼は、エレナ・アマリという存在の、最も触れられたくない、最も柔らかい部分を、白日の下に晒したのだ。それは、彼女の「人間性」の源泉であり、そして、彼女が最も忌み嫌う「不完全さ」の証でもあった。
彼女の紫水晶の瞳から、穏やかさが、完全に消え失せていた。
そこにあるのは、傷つけられたプライドと、全てを破壊し尽くさんばかりの、冷たい、純粋な怒りだった。
彼女は、何もない空間に向かって、静かに、しかし、地獄の底から響くような声で、命じた。
「SOLON(ソロン)」
「歴史家、水島海斗は、もはや、管理すべき変数ではない。システムに巣食う、駆除すべきウイルスと再定義する」
「彼の存在そのものが、非効率」
「プロトコル…『サン・イーター』を承認。アルゴスの拠点を、物理的に消滅させなさい。エコーの発生源を、そして、彼を、即時に、排除せよ」
ゲームは、終わった。
女神は、もう、対話も、説得も、求めない。
彼女は、自らの心の傷に触れた、異物を、ただ、消し去ることだけを、望んでいた。
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