第十九章:女神の傷跡
アルゴスの司令室は、絶望的な沈黙に支配されていた。
メインスクリーンには、全世界に配信されたエレナ・アマリの「ショー」が、無慈悲なループで再生されている。完璧な人間の、完璧な診断結果。それは、アルゴスの存在意義そのものを、根底から否定する、圧倒的なプロパガンダだった。
リョウたちの犠牲は、無駄に終わったのか――。誰もが、そう思い始めていた、その時だった。
『こちら、ポイント・ノヴァより、識別信号! アルゴス・トランスポンダだ!』
通信担当の声が、裏返った。
『生存者! 生存者が一名、帰還します!』
司令室が、爆発したような熱気に包まれた。
数分後、地下ドックの分厚い防水扉が、轟音と共に開く。そこに立っていたのは、戦闘服をぼろぼろに引き裂かれ、全身に無数の傷を負いながらも、その足で、確かに立っている、タケシの姿だった。
そして、その右手には、小さな、しかし、この宇宙の何よりも重い意味を持つ、一つの小包が、固く、固く、握りしめられていた。
タケシが司令室に運び込まれると、彼は、途切れ途切れの声で、全てを報告した。リョウたちの、英雄的な最後の戦い。待ち伏せていた、エレナ・アマリ。そして、水島海斗の「物語」が、彼に与えてくれた、最後の武器について。
「フレアを…使いました。海斗さんの、言っていた通りに…」タケシは、医療班の治療を受けながら、言った。「彼女は…叫びました。人間じゃない、獣みたいな声で。光に焼かれて、苦しんでいました。間違いありません。あれは、奴らの弱点です」
その言葉に、司令室の全員の視線が、海斗に突き刺さった。賞賛、驚愕、そして、畏敬。リョウが彼に向けていた、不信の色は、もう、誰の瞳にもなかった。
「君は、我々に武器を与えてくれた、歴史家」
アルゴスが、静かに、しかし、深い敬意を込めて言った。
「知識という、最強の武器をな」
タケシから手渡された小包は、厳重なプロトコルの下、アリス・ソーン博士のラボへと運ばれた。海斗も、アルゴスと共に、その歴史的な瞬間に立ち会う。
ソーン博士は、震える手で、その小さな錠剤を、分析装置のアームに乗せた。
「信じられない…」
モニターに表示されていくデータを見て、博士は呟いた。
「質量が、異常すぎる。このサイズで、この密度…。既知のどんな元素とも一致しない。分子構造は、完璧な結晶格子を形成していて、人工物であることは間違いない。だけど、こんなものを製造する技術は…」
彼女は、様々なスキャンを試みた。だが、錠剤は、その秘密を、決して明かそうとはしなかった。
「これが何であるか、私には分からない」ソーン博士は、白旗を上げるように言った。「でも、これが何でないかは、断言できる。これは、地球の産物じゃない。これこそが、我々が探し求めていた、動かぬ証拠…『スモーキング・ガン』よ」
司令室に、再び、全員が集まった。テーブルの中央には、あの小さな錠剤が、立体映像となって浮かんでいる。彼らは、ついに、神々の世界の、物理的な欠片を、その手に入れたのだ。
しかし、喜びもつかの間、アルゴスの言葉が、彼らを、より厳しい現実へと引き戻した。
「我々は、証拠を手に入れた。だが、同時に、我々は、最大の武器を失った」
老人は、エレナの演説の映像を指し示した。
「彼女のショーは、大衆という名の、巨大な『ワクチン』となった。今、我々がこの錠剤を公表したところで、人々は、これを『アルゴスが捏造した偽物』としか見ないだろう。エレナは、自らの潔白を証明することで、我々から『真実』の価値そのものを奪い去ったのだ」
司令室は、再び、重い沈黙に包まれた。状況は、作戦前よりも、さらに悪化している。証拠はある。だが、それを示すべき相手が、もう、こちらを向いてはくれない。
おまけに、とアルゴスは続けた。
「我々は、女神の頬を、ひっかいてしまった。彼女は、もはや、冷静な管理者ではない。傷つけられ、復讐に燃える、一匹の捕食者だ。これからの奴らの狩りは、もっと、執拗に、もっと、残忍になるだろう」
進むも、地獄。退くも、地獄。アルゴスは、完全に、手詰まりに陥っていた。
その、誰もが言葉を失っていた、その時だった。
「…間違っているのかもしれない」
静かに、しかし、はっきりと、海斗の声が響いた。全員の視線が、彼に集まる。
「俺たちは、これまで、彼女が『人間ではない』ことを証明しようとしてきました。彼女を『エイリアン』として、告発しようとしてきた。でも、それが、そもそもの間違いだったとしたら?」
海斗は、立ち上がると、司令室のモニターに映る、エレナ・アマリの、完璧な女神のような顔を、真っ直ぐに見据えた。
「彼女の最大の強みは、完璧な人間を演じられること。そして、彼女の最大の弱点は…」
海斗は、一度、言葉を切った。
「彼女が、完璧な機械ではない、ということだ。タケシ君が見たように、彼女は叫び、苦しみ、そして、激怒した。アルゴスさん、あなたは、俺の戦場は『人の心』だと言った。ならば、彼女をエイリアンとして攻撃するのは、もうやめましょう」
海斗の瞳に、新たな、そして、危険な光が宿っていた。
「彼女を、『一人の人間』として、攻撃するんです。彼女のプライドを、彼女の隠された『起源』を、そして、彼女の人間的な『怒り』を、標的にする。我々がすべきことは、武器で女神の身体を傷つけることじゃない。真実という名の、鋭い針で、彼女の『心』を刺し、血を流させることだ」
その、あまりにも大胆な、戦略の転換。
アルゴスのメンバーたちは、息を呑んで、この、静かな歴史家の言葉を聞いていた。
戦争は、物理的な次元から、より深く、より残酷な、心理的な次元へと、その姿を変えようとしていた。
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