第十二章:百分の一の誤差
黒衣の男――アルゴスの使者は、多くを語らなかった。ただ、その全身から発せられる、無駄のない、研ぎ澄まされた緊張感が、彼がただの人間ではないことを水島海斗に伝えていた。
「これを」
男は、一枚の薄いシートを海斗に手渡した。シートは、海斗の肌に触れると、まるで生き物のように彼の身体に密着し、馴染んでいく。
「SOLON(ソロン)の生体スキャンに対する、一時的な擬装だ。完璧ではないが、数分は稼げる。急げ」
ヘルメットの奥から聞こえる合成音声は、切迫していた。
海斗は言われるがままに服を着込み、男の後に続いた。一歩、部屋の外へ出ると、そこはいつもの、純白で静寂な廊下だった。だが、今はその静寂が、まるで巨大な捕食者の寝息のように感じられた。
「我々は、SOLON(ソロン)の『誤差』の中を移動する」
男は、壁に埋め込まれた監視カメラの死角を、滑るように進みながら、呟いた。
「SOLON(ソロン)は、完璧な知性だ。だが、完璧すぎるがゆえの、傲慢さがある。99.99%の人間が使わない経路や、非効率な空間に、あの神は、ほとんどリソースを割かない。我々は、その百分の一の誤差の中で、生きている」
彼らは、従業員が使う光のエレベーターではなく、壁のパネルを一つ外した先にある、薄暗いメンテナンス用のシャフトを使った。錆びた梯子を何層も降りていく。そこは、SOLON(ソロン)の光が届かない、忘れられた建物の内臓だった。熱交換用のパイプが唸りを上げ、古い機械油の匂いが鼻をつく。海斗が毎日を過ごしていた天上の世界とは、まるで違う、建物の「裏側」の顔だった。
と、その時だった。
彼らが降り立った、薄暗い通路の向こうから、かすかな浮遊音と共に、一台の巡回ドローンが姿を現した。それは、SOLON(ソロン)の免疫システムが、予期せぬ場所に現れた「ウイルス」を検知したかのようだった。
ドローンの赤いセンサーライトが、二人を捉える。警報が鳴るまで、おそらく1秒もない。
海斗が息を呑むより早く、隣の黒衣の男が動いた。彼は、銃ではない、奇妙な形状の装置をドローンに向ける。音も、光もなかった。ただ、ドローンの赤い光が、ふっ、と消え、その機体は、まるで糸の切れた操り人形のように、力なく床に落下した。
「電磁パルス兵器…」海斗は呟いた。「SOLON(ソロン)のネットワークに物理的な損傷を与えず、対象だけを沈黙させる」
「感心している暇はないぞ、歴史家」
男は、そう言うと、再び闇の中へと駆け出した。
海斗は、今更ながらに理解した。この「アルゴス」と名乗る組織は、ただの思想家やハッカーの集団ではない。彼らは、このハイテクユートピアの内部で、長年、孤独な戦争を続けてきた、本物の兵士なのだ。
やがて、二人は建物の最下層、巨大な廃棄物処理プラントにたどり着いた。ここから出る廃棄物は、全て圧縮・リサイクルされ、再び都市の資源となる。だが、そのサイクルの中に、一つだけ、古い時代から残された「例外」があった。21世紀初頭に閉鎖された、旧時代の地下鉄のトンネルだ。
トンネルの入り口には、一台の、装甲が施された無骨な車両が待機していた。それは、SOLON(ソロン)の流線形のポッドとは似ても似つかない、戦うためだけに存在する、鉄の獣だった。
二人が乗り込むと、車両は、轟音と共に、闇の奥深くへと走り出した。
生まれて初めて、海斗は、SOLON(ソロン)の支配する光の世界から、完全に脱出したのだ。
「よく、ここまでたどり着いた。水島海斗」
車両が走り出すと、黒衣の男は初めてヘルメットを外した。現れたのは、鋭い目つきをした、40代ほどの男の顔だった。無数の傷跡が、彼の戦いの歴史を物語っている。
「俺の名は、リョウ。アルゴスの一員だ」
「あなた方が…なぜ、俺を?」
「我々は、ずっと『鍵』を探していた。敵の正体も、目的も、おおよそは掴んでいた。だが、我々には決定的な証拠がなかった。奴らの計画を、眠っている大衆に証明するための、物理的な『何か』が」
リョウは、海斗の目を真っ直ぐに見つめた。
「君は、それを見つけ出した。それだけではない。敵の物理的な脆弱性まで突き止めた。君は、ただの歴史家ではない。君は、我々が見つけられなかった『答え』を、たった一人で掘り当てた、最高の考古学者だ」
車両は、やがて速度を落とし、巨大な防水扉の前で停止した。そこは、忘れられた地下鉄の、古い駅だった。だが、プラットフォームは、巨大なワークステーションと、無数のモニターが並ぶ、秘密基地へと完全に改造されていた。
様々な人種の、数十人の人間たちが、そこでせわしなく動き回っている。彼らの顔には、海斗がユートピアで見たことのない、切迫した、しかし力強い光が宿っていた。
車両のドアが開く。リョウが、海斗を促した。
「さあ、降りろ。ボスが待っている」
海斗がプラットフォームに足を踏み出すと、基地の奥から、一人の老人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。豊かな白髪と、深いしわが刻まれた顔。だが、その背筋は、驚くほど真っ直ぐに伸びている。
老人は、海斗の目の前で止まると、その深い瞳で、労わるように、そして、試すように、彼を見つめた。
「ようこそ、水島海斗君。私は、ここの責任者をしている」
老人は、かすかに笑みを浮かべた。その笑みは、彼が送ってきたメッセージの謎を、一瞬で氷解させた。
「君は、私のことを『アルゴス』と呼んでくれていたかな。……気に入っているよ。我々は、神が見ようとしない真実を、見つめ続ける者たちだからな」
老人は、手を差し出した。その手は、乾いていて、温かかった。
「君という、最高の『歴史家』が、我々の側に加わった。これで、ようやく、歴史を動かす準備が整った」
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