第十一章:アルゴスの目

照明が、何事もなかったかのように、完璧な光量を取り戻した。

二体の小型メンテナンスドローンが、焦げ付いたパネルを瞬時に交換し、音もなく壁の中へと姿を消す。エレナ・アマリの足元に伸びていた、あの不完全な影も、部屋を満たす均一な光の中に溶けて、もう見ることはできない。

「申し訳ありません。どうも、最近少し疲れているようで」

水島海斗は、最大限の反省と、最小限の自己弁護を込めて頭を下げた。

「そう。SOLON(ソロン)に、あなたの疲労回復に最適なメニューを再計算させましょう」

エレナは、感情の見えない声でそう言うと、その日はそれ以上、何も追求せずに部屋を去っていった。だが、海斗には分かっていた。彼女の紫水晶の瞳の奥に、新たな、そしてより鋭い光が灯ったことを。それは「疑い」という名の光だった。

その日を境に、二人の関係はさらに奇妙なものになった。エレナは、以前にも増して頻繁に彼の部屋を訪れた。だが、交わされる会話は、より抽象的で、哲学的なものへと変わっていった。彼女は、光の性質について、物理法則の普遍性について、そして、人間の「認識」がいかに曖昧で、不確かなものであるかについて、海斗に問い続けた。

それは、尋問だった。彼女は、彼が何を見たのか、そして、見たものの意味をどこまで理解しているのかを、慎重に探っているのだ。海斗は、無知な歴史家を演じきり、当たり障りのない教科書通りの答えを返すことに全力を注いだ。

だが、彼は知っていた。この心理戦は、長くは続かない。彼が手に入れた「影の秘密」は、この独房にいる限り、何の力も持たない。彼をこの鳥かごから出せる可能性があるのは、唯一、あの謎の協力者、「アルゴス」だけだ。

(連絡を取らなければ。俺は、ここにいるだけじゃない。使える駒だと、知らせなければ)

しかし、どうやって? この部屋の全ては、SOLON(ソロン)の監視下にある。角砂糖のような物理的な接触は、二度は期待できない。

突破口は、やはり、仮想空間にしかなかった。

海斗は再び、「歴史体感シミュレーション」の利用を申請した。今度の理由は、「20世紀の大学における、物理学講義の雰囲気を体験するため」。SOLON(ソロン)は、彼の知的好奇心を「ポジティブな精神活動」と判断したのか、無機質なチャイムと共に、それを許可した。

彼の意識は、再び、古き良き学び舎の風景へと飛んだ。だが、彼が向かったのは、図書館ではなく、大きな黒板のある、がらんとした講義室だった。

彼は、仮想空間に置かれた一本のチョークを手に取った。

SOLON(ソロン)のテキストスキャナーに検知されにくいように、彼は文字を書かなかった。彼は、ただ、二つの「絵」を描いた。

一つは、あの包み紙に描かれていた、不格好な「目」のシンボル。アルゴスの紋章だ。

そして、その隣に、もう一つの絵を描いた。

それは、単純な図形だった。左に、光を放つ太陽の絵。中央に、一本の棒人間。そして、右側の地面に伸びる、棒人間の影。だが、その影の輪郭は、わざと、何度も線を重ねて、ぼやけた、不明瞭な形に描かれていた。

これが、彼が送れる、最大限のメッセージだった。

『私は、アルゴスの存在を知っている。そして、あなた方が追っている「敵」の、物理的な欠陥についても、気づいている』

彼は、このメッセージが「アルゴス」に届くという保証も、その意図が正しく伝わるという確信もなかった。もし、これがSOLON(ソロン)に検知されれば、彼の命運は、今度こそ尽きるだろう。

海斗はシミュレーションを終了し、現実世界の独房へと戻った。

そこからは、ただ、待つことしかできなかった。

一日が過ぎた。何も起こらない。

二日が過ぎた。エレナの尋問のような対話が、神経をすり減らしていく。

三日が過ぎた。海斗の中に、焦りと、かすかな絶望が生まれ始めていた。やはり、あのメッセージは誰にも届かなかったのか。あるいは、無視されたのか。

四日目の、夜だった。

SOLON(ソロン)の体内時計によって、完璧な眠りへと誘われていた海斗の意識が、強制的に覚醒した。警報ではない。部屋の照明が、ゆっくりと、非常灯レベルの薄暗い明るさへと移行していく。

何事かと身を起こした彼の前で、今までただの一度も動いたことのない、部屋のドアが、かすかな音を立てて、スライドしていく。

闇の向こう側から、一人の人影が、部屋の中へと滑り込んできた。

エレナではない。もっと背が高く、がっしりとした体つきだ。全身を、光を吸収するような、特殊な素材の黒い戦闘服で包んでいる。顔には、フルフェイスのヘルメットを装着しており、その素顔をうかがい知ることはできない。

その人影は、海斗のベッドの前に立つと、ヘルメットの奥から、合成音声を発した。

「アルゴス」

その一言で、全てを悟った。

「水島海斗さん。時間です。我々と共に、来ていただきます」

それは、疑問でも、提案でもなかった。待ち望んでいた、救いの声。

そして、これから始まる、本当の戦いの、始まりを告げるゴングだった。

海斗は、無言で頷いた。彼の長い独房生活は、今、終わりを告げた。

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