第2話 王子様との秘密のレッスンは、超至近距離で!?

目の前で差し出された、大きくて綺麗な手。

一条 怜くんの唇が紡いだ、信じられない言葉。


『僕の専属調香師になってくれないか?』


(せんぞくちょうこうし? 専属……調香師……!?)


頭の中で、その言葉がぐるぐると反響する。

パニックでショートした思考回路が、ようやく再接続された瞬間、私の口から飛び出したのは、裏返った声だった。


「む、む、む、無理ですっ!!!」


ぶんぶん!と首を横に振って、全力で後ずさる。

だって、ありえない!

この私が、あの天才・一条怜くんの専属になるなんて、そんなのまるで、道端の石ころがお城の宝石箱に入れてもらうみたいな話だよ!


「私なんて、全然ダメなんです! 実習だっていつも追試だし、まともな香りなんて作れたことなくて……! 落ちこぼれなんです!」

「知っている」

「え?」


怜くんは、差し出した手を下ろすこともなく、平然と答える。

そのガラス玉みたいな瞳は、夕暮れの光の中でも静かに私を捉えていた。


「君が、自分の感情を香りに乗せるのが苦手なことも。いつも空っぽの香りしか作れずに、悩んでいることも」

「な、なんでそれを……!?」

「僕は鼻がいいんでね。それに、君のことは少しだけ、気になっていたから」


き、気になっていた!?

今、サラッととんでもないこと言わなかった!?


心臓が「ドキンッ!」と跳ね上がる。

でも、怜くんはそんな私の動揺なんてお構いなしに、話を続けた。


「僕が必要なのは、完璧な優等生の香りじゃない。白崎さん、君が作る、あの『嘘の香り』なんだ」

「私の……嘘の、香り……?」

「そう。本物の感情がなくても、まるでそこに感情があるかのように錯覚させる、君のその類稀な技術が、僕には必要だ」


まっすぐな言葉。

そこには、お世辞もからかいも一切含まれていない。

彼は、本気で私を必要としていた。

私のコンプレックスで、私が大嫌いなはずの、この『嘘の香り』を作る才能を。


(この人を、助けられるのは、私だけ……ってこと?)


ズキッ、と胸が痛む。

それは、同情? それとも……。


怜くんが抱える「何も感じない」という、深い孤独。

それに触れられる唯一の鍵が、私の『嘘』だなんて。

なんて皮肉な運命なんだろう。


「……でも」

「断る、という選択肢は、僕の中にはない」


有無を言わさぬ、静かな圧力。

うっ、と私が言葉に詰まると、彼はすっと私に歩み寄り、私のスマホをひょいと取り上げた。


「え、ちょっ……!?」

「連絡先を交換しよう。詳しい話は、また明日」


あっという間に連絡先を交換した怜くんは、何事もなかったかのように私のスマホを返し、「じゃあ」と短く告げて背を向けた。

夕闇に溶けていく、完璧な後ろ姿。


一人、中庭のベンチに残された私は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

手の中には、まだ怜くんの体温が微かに残っている気がするスマホと、甘く切ない『偽りの悲しみ』の香りが漂うアトマイザー。


(……って、なんで私が彼のことでこんなに一喜一憂してるの――っ!?)


顔に集まった熱を冷ますように、私はその場でしゃがみ込んでしまった。



「――で? 奏、昨日、一条くんと二人きりで何話してたのよ!?」


翌日の昼休み。

購買で買ったパンを頬張りながら、親友の美緒がキラキラした目で私を問い詰めてくる。その勢いは、まるで特ダネを掴んだ記者さんみたいだ。


「な、なんでもないよ! ちょっと道を聞かれただけだって!」

「うっそだー! 学園中、その噂で持ちきりだよ!? 『クールな怜様が、謎の地味子と夕暮れの中庭で密会!』って!」

「じ、地味子……」


否定できないのが悲しい。

昨日の出来事は、夢じゃなかったんだ……。

はぁ、とため息をついたその時、ポケットに入れていたスマホがぶるりと震えた。


画面に表示された名前に、ぎょっとする。


『一条 怜:特別調香室に来てほしい』


たった一行の、用件だけのメッセージ。

怜くんらしいといえば、らしいけど……!


(特別調香室!? 一般生徒は立ち入り禁止の、あの!?)


「ご、ごめん美緒! 私、先生に用事思い出した!」

「え、ちょっと奏!?」


背後から聞こえる美緒の声を振り切って、私は駆け出した。

心臓は全力疾走みたいにうるさい。

これは、ただの契約。ビジネスみたいなもの。そう自分に言い聞かせながら、私は緊張で汗ばむ手で、目的地の扉を開けた。


「わ……」


思わず、声が漏れた。

そこは、私がいつも使っている古い実習室とは、何もかもが違っていた。

壁一面のガラス窓から明るい光が差し込み、銀色に輝く最新の調香機材がずらりと並んでいる。見たこともないような珍しい香料が収められた棚は、天井まで届きそうだ。


まるで、未来の研究所みたい。


「来たか」


部屋の中央に置かれた白いデスクで、怜くんが一人、本を読んでいた。

私に気づいて顔を上げた彼は、静かに本を閉じる。


「ここなら、誰にも邪魔されない」

「……すごい、場所だね」

「特待生は、これくらいの環境が保証されているんでね」


淡々と話す怜くんの言葉に、改めて彼と私の間の、どうしようもないくらいの差を見せつけられた気がした。


「それで、本題だ」

怜くんは立ち上がると、私の目の前に一枚の招待状を置いた。金色の箔押しがされた、見るからに高級そうなカード。


「明日、学園の有力者たちが集まるパーティーがある。僕は、一条家の跡取りとして、それに参加しなくちゃいけない」

「パーティー……」

「そこで、君に創ってもらいたい香りがある」


怜くんの綺麗な指が、招待状の文字をなぞる。


「僕が、その場を『心から楽しんでいる』ように見える香り、を」


「――ええっ!?」


楽しい、の香り!?

私が一番苦手で、一度もまともに作れたことがない、あの!?


「む、無理だよ! 私、『喜び』とか『楽しい』とか、そういうキラキラした感情の香り、作れないもん!」

「『本物』じゃなくていい」


怜くんは、私の焦りを一瞬で見抜いたように言った。

「君の作る、『偽りの楽しさ』でいいんだ。周りの人間が、『ああ、一条 怜は楽しんでいるな』と錯覚するような、完璧な嘘の香りが欲しい」


彼の瞳は、真剣だった。

彼は、天才で、完璧で、王子様みたいに見えるけど……その裏では、周りの期待に応えるために、こんな風に必死に足掻いているのかもしれない。


『偽りの香り』を作ることは、私のトラウマを抉る行為だ。

でも……。

目の前で、こんなにも真剣に私を必要としてくれる人を、見捨てることなんてできるわけがない。


きゅ、と拳を握りしめる。


「……わかった。やって、みる」

「そう言ってくれると信じていた」


初めて、怜くんの口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。

その小さな変化に、私の心臓がまた、きゅんと音を立てる。


(だめだめ、私! これは契約なんだから!)


そこから、私と怜くんの、二人だけの秘密の調香作業が始まった。


「『楽しい』って言っても、色々あるよね……友達と騒ぐ楽しさ、美味しいものを食べる楽しさ……パーティーなら、華やかで、高揚感がある感じ?」


私は、特別調香室にある膨大な文献を引っ張り出して、必死に『楽しい』の定義を探る。

ベルガモットの陽気さ、グレープフルーツの弾ける感じ、ローズの華やかさ……。

色々な香料をムエット(試香紙)につけて、組み合わせてみるけど、どうしてもしっくりこない。


(ダメだ……全然、心が動かない……)


私が創り出す香りは、どれもこれも上辺だけを取り繕った、薄っぺらいものばかり。これじゃ、ただの芳香剤だ。怜くんが求める『人を騙せるほどの嘘』には、程遠い。


「……どうしよう……」


焦りと不安で、頭がぐちゃぐちゃになる。

そんな私の様子を、怜くんはずっと黙って見ていた。

そして、私が完全に煮詰まってしまったのを見計らったように、静かに口を開いた。


「『楽しい』がわからないなら、見せてあげる」


「え?」

「こっちへ来て」


怜くんに手招きされて、私はおずおずと彼の隣へ行く。

すると彼は、どこからか近未来的なゴーグルのようなものを取り出した。


「これは、香りを視覚と聴覚で同時に体験できる、最新のシミュレーターだ」

「シミュレーター……」

「僕が以前、課題で創った『至高の喜び』の香りをセットした。これを体験すれば、少しはヒントになるかもしれない」


怜くんはそう言うと、私の頭に、そっとシミュレーターを装着した。

彼の指が、髪に触れる。

その瞬間、ふわっと、彼から石鹸のような、清潔で、どこか無機質な香りがした。


(これが……怜くん自身の香り……?)


ドキドキしながら目を閉じると、怜くんがスイッチを入れた。


瞬間。


私の目の前に、信じられないような光景が広がった。


キラキラ、キラキラ……!

まるでダイヤモンドダストみたいな光の粒子が、目の前で弾けては、美しい音色を奏でている。

どこからか聞こえてくる音楽は、心が勝手に踊りだすような、軽快で明るいメロディー。

これが、怜くんの創った『至高の喜び』……!


(すごい……完璧だ……!)


落ちこぼれの私とは、次元が違う。

これこそが、本物の天才の仕事。

圧倒的な才能に打ちのめされながらも、私はこのキラキラした世界に夢中になった。


……でも。

しばらくその世界に浸っているうちに、私は、あることに気づいてしまった。


(あれ……?)


たしかに、キラキラしてて、綺麗で、完璧な世界。

でも……なんだろう、この感じ。

まるで、作り物のテーマパークみたい。

温かみが、ない。

誰かの笑顔とか、体温とか、そういうものが、この完璧な世界には、すっぽり抜け落ちている気がする。


(すごい、けど……なんだか、すごく……寂しい……)


シミュレーターをそっと外す。

目の前には、心配そうにこちらを覗き込む怜くんの顔があった。


「どうだった?」

「……うん。すごかった。一条くんの香りは、本当に完璧で、キラキラしてて……」


私は、思ったことを、そのまま口にした。


「……でも、少しだけ、寂しい香りがしました」


その瞬間。

怜くんの、いつもは何も映さないガラス玉みたいな瞳が、大きく、大きく見開かれた。


「――寂しい?」


彼の声が、微かに震える。

誰も、今まで指摘したことなんてなかったんだろう。

彼の『完璧な香り』に隠された、無意識の孤独の香りを。

私の『神の鼻』だけが、嗅ぎ取ってしまったんだ。


怜くんは、動揺したように数回まばたきをすると、次の瞬間、私をじっと見つめた。

その瞳には、今まで見たことのない、強い光が宿っていた。


「……白崎さん。君は、やっぱり面白い」


そう言うと、怜くんは、私の両肩に、ぽん、と手を置いた。

そして――。


グッ、と、私たちの間の距離がゼロになるくらい、顔を近づけてきた。


(え、え、え、ええええええ――っ!?)


目の前には、怜くんの完璧すぎる顔のアップ。

長い睫毛、透き通るような肌、形のいい唇。

心臓が、今にも破裂しそうなほど、ドクドクと鳴り響く。


「僕の心、君になら本当に創れるかもしれない」


熱を帯びた、吐息混じりの声。

もう、パニックを通り越して、何も考えられない。


果たして、私はパーティーまでに『楽しい香り』を完成させることができるの!?

ていうか、この超至近距離、一体どうなっちゃうの――っ!?

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