落ちこぼれ調香師、無感情な王子に“恋する心の香り”を届けます!

☆ほしい

第1話 嘘つきな私と、香りのない王子様

私の名前は、白崎 奏(しらさき かなで)。

人の感情を香りで作り出す「調香師」を育成する、名門「セント・パルファム学園」に通う高校一年生。


……なんて言うと、なんだかすごい人みたいに聞こえるかもしれないけど。

現実は、まあ、その真逆。

学園始まって以来の、落ちこぼれ。


それが、私。


「――白崎さん、また『無臭』だね」


放課後の調香実習室。

クラスメイトのひそひそ声が、私の耳にちくりと刺さる。


今日の課題は『喜び』。

それも、友達と笑い合った時みたいな、弾けるような明るい喜びの香り。


みんなのテーブルの上には、キラキラしたオーラを放つ小さな香水瓶が並んでいる。

太陽みたいに暖かくて、柑橘みたいにフレッシュで。嗅ぐだけで、こっちまで笑顔になっちゃいそうな『本物の喜び』の香りが、教室中にふわりと満ちていた。


なのに。

私の手元にあるのは、ただの透明な液体。

何の感情も乗っていない、空っぽの香り。


(また、ダメだった……)


きゅっと唇を噛みしめる。

悔しい、とか、悲しい、とか、そんな感情すら香りにすることができない。

私には、生まれつき類稀な嗅覚――神の鼻(ディヴァン・ネ)と呼ばれる才能があるらしい。ほんの僅かな香りの違いも、そこに込められた感情の機微も、手に取るように分かってしまう。


皮肉なことに、分かる、だけ。

いざ自分の感情を香りにしようとすると、途端に心がぎゅっと縮こまって、空っぽの香りしか作れなくなってしまうのだ。


原因は、わかってる。

幼い頃の、あるトラウマのせい。


それ以来、私は自分の心に鍵をかけた。

本当の気持ちを香りに乗せるのが、怖くなった。

だから、私が作れるのは――人の心を惑わすための、『偽りの香り』だけ。


「奏、おつかれー。気にしない気にしない!」


ぽん、と背中を叩かれて振り返ると、親友の美緒(みお)がニッと笑っていた。ショートカットがよく似合う、明るくて優しい自慢の親友だ。彼女の周りからは、いつでもひまわりみたいな、あったかい『元気』の香りがする。


「美緒……。ごめん、今日もダメで」

「いーの! 奏はじっくりタイプなんだから! それよりさ、聞いた? 特待生の一条 怜くん!」


きゃっと声を弾ませる美緒。

一条 怜(いちじょう れい)――その名前を聞かない日はない。

同学年にして、このセント・パルファム学園のトップに君臨する天才。入学して早々、どんな難解な香りも完璧に再現し、おまけに誰も創り出したことのない新しい香りを次々と発表しているっていう、まさに王子様みたいな人。


もちろん、会ったことはない。住む世界が違いすぎる。


「なんでも、今日の『喜び』の課題だって、誰もがひれ伏すような『至高の喜び』の香りを創り出したらしいよ! あー、一目見てみたい! そして嗅いでみたい!」

「はは……すごいね」


私とは大違いだ。

『至高の喜び』なんて、どんな香りなんだろう。

きっと、ダイヤモンドみたいにキラキラしてて、どこまでも澄み渡る青空みたいな香りなんだろうな。


私には、一生作れない香り。


ズキッ、と胸の奥が痛んだ。



その日の帰り道。

私は、実習室でこっそり作った『ある香り』の入った小さなアトマイザーを握りしめていた。

もちろん、これも『偽物』。

今日の課題とは別に、私が唯一、得意とする香り。


それは、『悲しみ』の香り。


本物の悲しみじゃない。

映画のヒロインが流す、綺麗で、儚くて、誰もが同情してしまうような、計算され尽くした『偽りの悲しみ』。

これを創っている時だけは、無心になれた。

自分の本当の心と向き合わなくて済むから。


(こんなもの、持ってても仕方ないのに)


捨てるに捨てられなくて、私はいつも人気のない中庭のベンチで、こっそり香りを確かめるのが癖になっていた。

今日も、誰にも見られないように、そっとアトマイザーの蓋を開ける。


しゅっ。


霧状になった香りが、夕暮れの空気と混じり合う。

スミレとヒヤシンスの切なさに、雨上がりの湿った地面の匂いを少しだけ。ラストノートには、消え入りそうなムスクを。

完璧な『悲しみの香り』。

心なんて、一欠片も込もっていないのに。


「……いい香りだね」


不意に、すぐそばから声がして、心臓が喉から飛び出しそうになった。

「ひゃっ!?」

慌てて振り返ると、そこに、一人の男子生徒が立っていた。


夕日を背にした、その姿。

さらりとした黒髪が、風に揺れてキラキラ光ってる。

制服は寸分の乱れもなく着こなされていて、まるで雑誌のモデルさんみたい。

そして、なによりも――。


(きれい……)


思わず見とれてしまうくらい、整った顔立ち。

長い睫毛に縁どられた瞳は、どこか涼しげで、大人びてて……。


って、見とれてる場合じゃない!

今の香り、嗅がれた!? 偽物だってバレたら、どうしよう!


「ご、ごめんなさい! すぐ消します!」

パニックになった私がアトマイザーを仕舞おうとした、その時。


「いや、そのままで」


静かな声が、私の動きを止めた。

彼は、私の隣にすっと腰を下ろすと、ふぅ、と細く息を吸い込んだ。

夕暮れの光が、彼の完璧な横顔を照らし出す。


「……悲しい香り、か。見事なアコード(調和)だ。トップのフローラルが涙を誘って、ベースのアーシーさが絶望感を演出している。計算され尽くした、完璧な調香だ」

「え……」


的確すぎる分析に、言葉を失う。

この人、一体、誰……?


(まさか……)


私の頭に、美緒が興奮気味に話していた名前が浮かび上がる。

学園一の天才。特待生。

一条 怜――。


(うそ、なんでこんなところに!?)


心臓が、バクバクとうるさく鳴り響く。

それと同時に、私は目の前の彼に対して、強烈な『違和感』を覚えていた。


(この人……『香り』がしない……?)


そう。

この学園の生徒は、誰もが自分の感情の香りを、意識せずとも身体から放っている。

嬉しい時は甘い香り、怒っている時はスパイシーな香り。

美緒がいつもひまわりみたいな香りがするように。


でも、目の前にいる一条怜くんからは、なんの香りもしなかった。

完璧なルックスと、完璧な才能を持ちながら、彼という人間を構成するはずの『感情の香り』が、すっぽりと抜け落ちている。

まるで、精巧に作られたお人形みたいに。


どうして?

こんなことって、ありえるの?


私が混乱していると、彼はゆっくりと私の方を向いた。

そのガラス玉みたいに綺麗な瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「君が創ったのか?」

「は、はい……でも、これは、その……」


――失敗作なんです。

そう言おうとしたのに、怜くんのあまりの美しさに声が詰まって出てこない。


すると、怜くんは私の手から、ふわりとアトマイザーを取り上げた。

骨張っていて、綺麗な指先。

その指が、私の指に少しだけ触れて、全身の体温が二度くらい上がった気がした。


(――っ!?)


彼はもう一度、アトマイザーをシュッとひと吹きする。

『偽りの悲しみ』が、私たちの間に漂った。


私は、息を呑んで彼を見つめる。

(やめて……そんなに見ないで……)

偽物の香りで、天才の彼を騙せるわけがない。

「心がない、空っぽの香りだ」って、きっと、さっきの実習の先生みたいに、軽蔑されるに違いない。


覚悟して、ぎゅっと目を瞑った。


でも。

彼から聞こえてきたのは、予想とはまったく違う言葉だった。


「……ああ」


それは、吐息のような、小さな呟き。

恐る恐る目を開けると、怜くんは自分の胸にそっと手を当てていた。

いつもは完璧に整えられているはずの表情が、ほんの、ほんの僅かだけ、苦しそうに歪んでいるように見えた。


「……今、少しだけ。心が、動いた気がする」


「え……?」


聞き間違い?

今、この人、なんて言ったの?

心が、動いた?


私の、この、嘘と計算だけで作り上げた、空っぽの香りで?


信じられなくて、まばたきを繰り返す私に、怜くんは静かな、でもどこか切実な響きを帯びた声で言った。


「僕はずっと、何も感じないんだ」


「……え?」


「嬉しいとか、楽しいとか。そういう感情が、わからない。どんなに素晴らしい香りでも、美しい景色を見ても、僕の心は少しも動かない。まるで、分厚いガラスで覆われているみたいに」


怜くんの瞳が、悲しく揺れる。

それは、私が作った『偽りの悲しみ』なんかじゃなくて。

彼の奥底にある、本物の、どうしようもないほどの孤独の色をしていた。


「でも、今。君のこの香りを嗅いで……胸の奥が、ちくりと痛んだ」


怜くんは、私の目をまっすぐに見て言う。

「まるで、本当に悲しいことがあったみたいに」


――ズキッ。

今度は、私の胸が痛んだ。


この人は、感情がないんじゃない。

感じることが、できないんだ。

そして、私の『偽りの香り』だけが、彼の分厚いガラスに、ほんの少しだけヒビを入れることができた……?


怜くんが、すっと立ち上がる。

そして、私に向かって、綺麗な手を差し出した。


「君の名前は?」


その声は、命令でも、お願いでもない。

ただ事実を確認するような、不思議な響きを持っていた。


「し、白崎……奏、です」


かろうじて答えると、彼は小さく頷いた。


「白崎さん」


夕暮れの光が、彼の輪郭を黄金色に縁取る。

逆光で表情はよく見えない。

でも、その声だけは、私の鼓膜に、心に、はっきりと届いた。


「――僕の専属調香師になってくれないか?」


「…………え?」


せんぞく、ちょうこうし?

私が? この、落ちこぼれの私が?

学園一の天才、一条怜くんの?


思考が完全に停止する。

目の前で差し出された、大きくて綺麗な手。

彼の真剣な眼差し。

そして、私たちの間にまだ微かに漂う、『偽りの悲しみ』の香り。


嘘みたいな現実が、甘く切ない香りと一緒に、私の心をかき乱していく。

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