二、いざよい

 今朝方、不可思議の縁談話を聞いてから、どういうわけだか具合が悪い。食欲があまりない中摂った昼食はまるで砂を噛むようで、半ば茶で流し込むようにしてなんとか胃に収めた。

 本部に提出する報告書を書く手を止め、私は椅子の背にもたれる。そして、右手側の壁に目をやった。

 私に貸し与えられたこの部屋は、昔、書庫だったという。その名残か、扉がある壁を覗いた三面のうち一面が本棚になっている。分野別に仕分けされているようのだが、そのほとんどは洋書であり、難解な専門書である。私の理解が及ばないものばかりだ。この数々の蔵書を、不可思議はすべて読破し、理解しているらしい。

 一度、彼女がしている研究について、彼女本人から説明を受けたことがある。医学にも機械工学にも疎い私には、夢物語としか思えない内容だった。同時に、私が彼女の監視を命じられている理由を理解した。彼女の研究が実を結べば、我が国の軍事技術は間違いなく発展する。彼女は――不可思議という少女は、持って生まれた優れた頭脳ゆえに、このやしきに囚われているのだろう。

 今回の縁談話も、彼女を利用する意味を持っているのかもしれない――。そう考えると、陰鬱な心持ちになる。

 私から見た不可思議は、聡明で大人びてはいるが、年相応の茶目っ気や悪戯っぽさを持った少女である。そんないたいけな少女が、軍略のために自由を――生き方を制限されるなど、あっていいはずがない。しかし、一兵卒である私もまた、歯車のひとつでしかない。いくら良心が痛んだとしても、軍人である以上任務の放棄は許されない。仮に今の立場を捨てたとして、私が彼女のために一体なにが出来るだろう。一層惨めな心地になった。


 不意に扉が叩かれた。控えめに、ゆっくりと三度。咄嗟に立ち上がる。彼女だ。鼓動が逸る。息を大きく吸って、気持ちを落ち着ける。慎重に扉を開けると、廊下には予感した通りに不可思議が居た。少女は胸に大判の封筒を抱えている。

「今、お時間はよろしいでしょうか?」

「問題ありません。ちょうど手を止めていたところで」

「ありがとうございます」

 彼女は抱えていた封書を差し出して、

「今月分の実験結果のリポートです。お戻りになるとき、お持ちになってくださいな」

「あ、ああ……はい。確かに――あっ」

 細い指が、触れた。思わず封筒を取り落としそうになる。すんでのところで端を掴み、墜落させずに済んだ。封筒を持ち直し、小脇に抱える。

「珍しい。清一郎さん、お疲れなのではありませんか?」

「いえ……失礼、少し考えごとを」

「なおのこと珍しいですわ。お悩みごとですか? 差し支えがなければ、お聞きしても?」

 心配そうに眉尻を下げた不可思議が尋ねる。私は逡巡して、結果、あなたのことですと正直に告げた。彼女は目をみはった。

「わたくしの?」

「……はい」

「ごめんなさい。わたくし、清一郎さんを困らせるようなこと、してしまいましたか?」

「いいえ、そういうわけでは――」

 少女はしゅんと肩を落とし、無垢な顔を曇らせた。罪悪感があぶくのように湧き立つ。

 これは、白状するよりない。

 私は観念して、彼女に向き直った。

「――結婚、なさるのですか」

「いずれ、そうなると思います」

 不可思議は、淡い微笑みを浮かべた。切なげな表情は、諦めているようにも見えた。

「あなたは、」

 それでよろしいのですか――と、言いかけて、やめた。その言葉を投げかけたとして、彼女を責めるだけである。意に沿わぬ縁談であることは、今朝の彼女の様子から明らかだ。彼女を傷付けることだけは避けたかった。

 よほど私が狼狽うろたえて見えたのだろう。彼女は私を見上げ、くすりと笑みをこぼした。

「清一郎さんはお優しいですね。こんなわたくしのことを、心から案じてくださる」

「買い被りです。自分は、」

「謙遜なさらないで。わたくしにとっては真実なのです。あなたはご存知ないのですわ、あなたの存在が、どれだけわたくしの救いになっているのかを」

 少女の言葉に、そしてその声の柔らかさに胸が締め付けられた。私などより、年少であるはずの彼女の方が遥かに成熟している。達観していると言っていい。それに引き替え、不可思議の境遇に同情しながら、我が身かわいさになにも出来ないでいる私の不甲斐なさといったらない。

「……自分は、なにもしていません。自分はただの――軟弱者です」

「まあ」

 吐き捨てる私に、不可思議は再び笑みをこぼした。あざけりや侮蔑ぶべつの色を一切持たない仄かな笑みにこそ、救われた思いがした。

 そうだわ。少女は胸の前で両手を合わせ、

「清一郎さん。もしよかったら、今夜、お茶にお付き合いいただけませんか?」

 唐突な提案だった。

「今夜、ですか」

「ええ。今夜は快晴でしょうから、きっと星がよく見えると思うんです。是非ご一緒していただきたいの」

「自分は構いませんが、その」

「うふふ。勿論、ばあやには内緒です」

 悪戯っ子のような顔をして、少女は唇の前で人差し指を立てた。その仕草がやけに大人びて見え、胸がずきんと高鳴った。それが彼女に伝わらぬよう、私は平生へいぜいを装って言う。

「見つかっては、叱られるのではありませんか」

「あら、清一郎さん、ばあやのお説教が怖いんですの?」

「む、そういうわけでは……」

「冗談ですわ」

 不可思議はころころと笑った。こんなにも楽しげな彼女を見たのはいつぶりだろう。不可思議はいつでも優しく笑っていた。今朝だってそうだ。なのに何故だか、昔の出来事のように感じられて――ふっと遠くなりかけた意識を、彼女の声が引き戻す。

「では、夜半にお伺いしますね」

「は、はい」

「きっと、起きていらしてね。きっとよ。楽しみにしていますから!」

 念を押すように言って、不可思議は身を翻した。長い髪と着物の袖が靡く。見惚れる間もないはずの一瞬が、目に焼き付いた。まるで春風の名残りだ。涼やかな香りさえ感じられ、吸い込んだ空気をそっと肺に留めた。


 私は無人となった廊下に暫く立ち尽くしていた。扉を閉め、やっと息を吐く。

 逢瀬を、約束してしまった。

 彼女に他意などありはしない。全くの善意から、私を元気付けようとしてくれたのだ。わかっているはずなのに、それでも心臓が騒ぎ、熱病にでもかかったように身体中が熱くなった。

 いけない。

 無意識のうちに否定し、必死に押し殺していた感情が、せきを切ったようにあふれ出る。


 気付きたくなどなかった。

 この感情の名前は、――恋慕だ。

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